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 受付を済ませた私たちはスケート靴に履き替えリンクを目指した。手すりに掴まりながら、製氷されたばかりのリンクに立つ。不安定な足元に身体が揺れ、思い出すのは一年前の感覚。

「思い出した、この感覚……」
「俺の手に掴まる?」

 そしてやっぱり私とは対称的に、衛輔くんは凛とした姿勢で氷上に立っている。去年レクチャーしてもらった事を頭の中に浮かべながら、衛輔くんの隣に立とうとした。

「う、ううん。平……気!?」

 これくらいの距離なら補助がなくても移動する事くらいは出来るだろうと、手すりから手を離した瞬間の事だった。しかしそこはやはり、先ほど製氷したばかりのスケートリンク。私が想像していたよりもなめらかに滑る足元は一瞬にしてバランスを崩した。
 何かに掴まることも、耐えることも出来なかった私は硬い氷の上で尻もちをついたのだ。それはもう、見事に。周りの人もびっくりしてこちらを見てしまうくらいに。慌てた衛輔くんが私に近づく。

「あ、お、おい! 大丈夫か?」
「い、痛……」
「ほら、手」

 あんなに豪語していたのに、最初の一歩すら踏み出せなかったのである。不甲斐ないと同時に恥ずかしくて、いっそ笑ってほしいとさえ思った。
 差し出された衛輔くんの手を素直に掴んで、立ち上がりを手伝ってもらう。今度は両手をしっかり握られバランスを保てるようにはなったけれど、こんなつもりじゃなかったと項垂れるしかない。

「怪我は? 足首とか」
「足首は平気。怪我もしてないから滑れる……けど」
「いや、にしても派手に転んだなー」
「……お尻がとにかく痛くてもしかしたら青あざ出来てるかも」
「後でベッドの上で確かめてやろうか?」
「なんかセクハラっぽい」
「なんでだよ!」

 心配はしているものの、私が恥ずかしさを感じさせないようにと衛輔くんは軽い調子で言う。

「あんなに声高々に言ったのに早々転ぶとか格好悪すぎる……」
「期待を裏切らないって感じで良かったけどな」
「それ全然フォローになってないよ!?」

 おそらく私は絶望的にスケートのセンスがないのだ。

「大丈夫だって。俺がまた教えるから」

 衛輔くんは去年もそうしたように、私の両手を取り私を導いてくれた。ゆっくりと氷の上を滑りだす。相変わらずロマンチックとは程遠いし、衛輔くんはちょっと笑いかけているけれど、うん。悪くはない。

「もっと上半身にも力入れて」
「は、はい……」
「去年教えたら一人で滑れるようになったんだし、慣れたらまた滑れるって」

 そして私はまたその優しさに絆される。
 一年前、私はここがエカチェリンブルクでなければ私は恋に落ちていたかもしれないと思った。けれど今ならそれは違うと言い切れる。ここがエカチェリンブルクだから私は恋に落ちたのだ。
 凍てつく空気。澄んだ冬の空。手袋越しの感覚と、スケートリンク。やっぱりここがエカチェリンブルクで良かった。

「名前? やっぱりどっか怪我してたか?」
「ううん。違う。それはもう大丈夫」

 反応が薄くなった私を心配して衛輔くんは言う。

「やっぱりスケートしてよかったなって」
「ケツに痣できたのに?」
「それはまだわかんないから! かもしれないって話だから!」

 時間はかかってしまったけれど、衛輔くんの手助けにより補助なしでもある程度の距離は滑れるようになってきた。そして氷の状態も丁度よい加減になった頃。

「じゃあ俺はここで見てるから名前、1人で1周してみて」
「えっ急にスパルタコーチみたいなこと言い出した」
「去年は自分から言ったやつだろ」
「そうだけど〜」

 去年はなんとか1周出来たけれど、今年はどうだろうか。渋々と言った様子で返事をしたけれど、やらないという選択肢はもちろんなかった。
 いってきますと言い残してたくさんのスケーターの中に入り込む。荒波に挑むサーファー、もしくは吹雪の中を進むクロスカントリースキーヤーの気分で。
 途中、何度か転びそうになりながらも再び見えてきた衛輔くんの姿に私の口角が上がる。
 今年はちゃんと止まり方も教えてもらったから今度こそ格好良い姿を見てもらえるはずだ。衛輔くんは手を差し伸べかけている。右足を内股にし、エッジを外側に。これでしっかり止まれるはずだと思ったのに、勢いが緩くなるだけでピタリと止まる気配はなかった。やはり、私は絶望的にセンスがなかったのだ。

「止まらない!? なんで!?」

 縮まる距離。衛輔くんは眼前にいる。またぶつかる、と慌てる私を衛輔くんが優しく抱き止めた。去年と同じように。

「セーフ」

 背中に腕が回されて、頭上から声が落ちる。見上げた先にある衛輔くんの微笑み。

「……ありがとう」
「なんでそんな不服そうなんだよ」
「今年はビシッと滑れるところを見せたかったのにと思って」
「滑れてた滑れてた」

 再び重なり合う手のひら。これはもうこれで、やっぱり悪くないのだ。

「よし。じゃあ今度は一緒に滑ろうぜ」

 衛輔くんが隣にいる。それだけで不安も緊張もどこかへ消えるから衛輔くんは私にとっての魔法使いだ、と秘かに思うのだった。

(21.12.22)