05


 お店の外に出て深く息を吸込めば、肺がひんやりと冷える感覚が身体を襲う。温まりきった身体に活を入れるような寒さは、吐き出した息を白く舞い上がらせた。

「トラム?」
「うん。衛輔くん、地下鉄?」
「いや、名前がトラムなら俺もトラムで帰るかな」
「いいの? 衛輔くんのところ地下鉄のほうが近いよね?」
「たいして変わらないなら途中まで一緒のほうがいいだろ。夜だし」

 エカチェリンブルクの治安は悪くはない。もちろん深夜に一人で歩いたり人気のない路地裏はそうとは限らないけれど、この時間トラムの通るような道はよっぽどのことがない限り不安になる要素はない。
 アジア人という事で良くも悪くも目立つ時はあるけれど、ロシアにきて私が身の危険を感じたことは1度もなかった。いや、去年暖房器具の調子が悪く室温が上がらなかった為に凍死するかと思った日があったか。
 
「そしたらトラム乗って途中まで一緒に帰ろ」

 数ブロックの距離を並んで歩く。寒いおかげか空高くにある星は夏に比べ深い輝きを見せていた。その輝きが少し前にソーニャと共に見たエカチェリンブルクの夜景の光に重なる。

「衛輔くんヴィソツキービジネスセンターの展望台行ったことある?」
「あー、あの目立つビルだよな? そもそも展望台あるの知らなかった」
「夜行ったら夜景見れて凄い綺麗だったからオススメ」
「へぇ。じゃあ今度行ってみるかな」

 衛輔くんがわざわざ行くか行かないかはわからないけれど、私はこうやって新しい景色を知った時その景色を衛輔くんに伝えたくなる。美味しいお店を発見したら伝えたくなるし、ロシア語のスラングを知ったらすぐに衛輔くんに言いたくなる。
 私と衛輔くんの時間の使い方は全然違うし、育ってきたこれまでの生き方も違う。目標も目的も、渡航の理由も一致するものはないけれど、日本から離れたこのエカチェリンブルクという街で日常をシェアできる喜びは何にも勝るとさえ思えた。

「つーか一緒に行こうぜ」
「えっ」
「キーラ誘うにしても、他のやつ誘うにしても男同士で夜景とか寂しいだけだし」
「私でいいの?」
「むしろ名前以外にいなくね?」

 衛輔くんはそれが当然であるかのように言う。そうなんだろうかと考えてはみたもののそれが絶対的であるかどうかまではわからない。でも自分に置き換えたときに確かに私も何かあれば真っ先に衛輔くんのこと思い出すもんなぁと思えば逆もまた然りなのかもしれない。
 私達の関係はとてもゆるく柔らかく伸びやかで、時々脆く儚い。決してそんなことはないのにどこまでも続いていくような気もするし、ある日解けるように終わっていくような気さえもする。

「じゃあ、約束」
「約束な」

 小指を絡めることはない、互いが笑顔を見せ合うだけの約束。
 歩幅は大きくないのに、ペリメニのお店から数ブロック先のトラムの乗り場までは自分でも驚くくらいあっという間に着いた。
 待つこともなくタイミング良くやってきたトラムへ一緒に乗り込む。日本の満員電車と比べればたいした比ではないものの、時間帯のせいか乗車率はいつもよりも高いような気がした。
 衛輔くんと並び、窓の方に向かって立てば外には私達みたいにマフラーをしているだけではなくて、毛糸の帽子やスノーブーツを着用している人たちも目に入る。
 
「きっとあっという間に冬がくるね」
「ここにいると春も夏も秋も一瞬で終わる感じするよな」
「わかる。気がついたらもう冬? 嘘でしょ! って」

 衛輔くんと知り合ったのは今年の冬の終わりだから、これからやってくる極寒の冬を共にするのは初めてだ。ハロウィンがあってクリスマスがあってバレンタインがあって。どれもこれも日本のそれとは全然違うけれど、カレンダーに並ぶイベントは楽しみで仕方がない。
 もちろんそれらを全て衛輔くんと共にいるわけではないけれど、それでもやっぱりソーニャやバーブシカ、キーラにレルーシュカ。そして衛輔くん。私の日常にはどうしたって、衛輔くんがいるのだ。例え続く道が長くとも、短くとも。

「次?」
「うん、次だね」
「じゃあまた連絡するな」
「うん。今日はありがとう! お土産も明日から……ううん、今日から早速使うね」
「おう」
 
 トラムが私の最寄りに止まると、衛輔くんに手を降ってトラムを降りる。ゆっくりとまた動き出すトラムの後ろ姿を見送ってからアパルトメントへ向かった。
 お腹も心もいっぱいだけど、部屋に戻ったら衛輔くんからもらったマグカップに温めた牛乳を注いで飲もう。はちみつを加えて少しだけ甘くして。

(20.12.9)