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 去年の賑やかさとは打って変わって、2人きりの部屋はとても優しい落ち着きで満たされていた。
 大晦日をどう過ごすかによって次の1年が決まる、とソーニャが言っていた事を思い出す。だとすれば、来年もよい一年になるに違いない。

「ん? どうした?」
「んーん。衛輔くん、手際良いなって」
「そりゃ自炊してるしな」
「私も負けてられない」
「何に張り合おうとしてんだよ」

 昨日、下処理を済ませていた事もあって料理はほとんど完成している。あとはボルシチの出来上がりを待てば終わりだ。キッチンに漂う、空腹を刺激する香り。気を抜けばお腹の虫が鳴ってしまいそうだ。

「名前」
「うん?」
「味見。あーんして」

 鍋をかき混ぜていた衛輔くんが小さなスプーンを差し出す。赤色の液体が銀色のスプーンの中で揺れて、ほのかに湯気が立っている。
 ご飯を食べている時にそれをされたら気恥ずかしくなるのに、味見だと躊躇いなく口を開けられるのはどうしてだろう。

「うん! オッケー。良い感じ」
「じゃあ完成だな」
「……全部食べきれるかな?」
「食えるだろ。明日もあるし」
「そっか、余ったら明日食べればいいんだもんね」

 時刻は夜7時。カーテンを開けて見える空はすっかり夜に飲み込まれている。
 冷え込んでいるからか、夜空に散らばった星は普段よりも輝いていた。この調子だったら明日は今日以上に寒いかもしれない。そう思ったけれど、初詣に行くわけでもないし寒ければ寒いで外に出なければ良いだけの話かと一人納得する。

「衛輔くん、明日何するつもりだった?」
「明日? 名前が行きたいところあるんだったら付き合うつもりだったけど」
「私も特にないから衛輔くん何かしたいことないかなって思って。1日に開いてるお店ってほとんどないし、明日は冷え込むだろうし」

 ボルシチをお皿に盛ってテーブルに置くと、年末を飾るに相応しい料理たちが並んだ。一緒に作るのが楽しくてつい作りすぎてしまったのはやっぱり否めない。
 向かい合って座り、手と手を合わせる。

「いただきます」

 重なる声。普段の何倍も美味しいと感じるのは、目の前に衛輔くんがいるからなのだろう。
 今年も色んな事があった一年だった。個人的には、衛輔くんから告白されたことが一番の出来事だったけれど。
 穏やかな波の上をゆったりと進むような日々。劇的な何かが起こらなくたって、人生は素晴らしいと思える。この場所にいると平凡な日常こそが幸せなのだと全身で感じることが出来るのだ。

「名前は今年帰国だもんな」
「うん。9月の頭かな」
「戻ったら何するか決めてんの?」
「まだ全然。製菓関係の仕事に就くか、ロシアでの経験を活かせる職業に就くかの二択かなって思ってるけど」
「そっか」

 言葉にすると現実味が帯びる。寂しいとは思うけれど、帰国することは嫌ではない。
 敢えて心配な点を挙げるならやっぱり衛輔くんとのことだろうか。遠距離恋愛なんてしたことがないし、衛輔くんのいない日常は大切なピースが欠けたようなものになってしまったから。

「……またロシアで暮らすのは考えてないんだっけ?」
「ビザのこともあるし、私が暮らしたいって言うより難しいんだろうなって」
「難しくなかったら?」
「え? うーん……ロシアでも日本でも、楽しく暮らせる場所で過ごしていきたい、と思う……かな?」

 衛輔くんは何かを考えるように視線を外す。私と同じように今後の心配をしているんだろうか。悲観しても仕方ないし、出来るだけ楽観的に考えようと口を開く。

「あ、日本で衛輔くんと会うのは初めてだから、それはちょっと楽しみかな。ほとんど入れ違いで帰国することになるだろうし、それこそ再来年? になるかもしれないけど、温泉とかテーマパークとか、エカチェリンブルクじゃ出来なかったこと一緒に出来たらいいなって思ってるよ」
 
 来年も再来年も、離れていても近くにいても、相手を優しく想う気持ちだけは大切に持っていたい。

「だな」

 衛輔くんは微笑む。心配なんか一気に吹き飛ばしてくれる笑み。
 ああ、そっか。衛輔くんってシャルロートカに似てる。こんなこと言ったら衛輔くんは何言ってんだって笑うかもしれないけれど、溶けるような甘さも、包み込む優しさも、シャルロートカのそれとそっくりだ。

「衛輔くん」
「ん?」
「今年もありがと」
「こちらこそ」

 過ぎ去った日々に想いを馳せる。そして、これからやってくる未来にも。来年の言葉は年が明けたら言おう。今日は夜を越えても共にいられるのだから。

(22.1.25)