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 待ち合わせ場所に着いて衛輔くんを待つ時間が好きだ。寒くても暑くても人の往来が激しくても、あと少しで衛輔くんがやってくるんだなと思うと心が軽くなる。

「Excuse me, I seem to be lost」

 待ち合わせ時間まではあと10分程。雪化粧の街並みをぼんやり見つめていると声をかけられる。日本語でもロシア語でもない、ここではあまり聞くことがない英語。欧州の人だろうか。道に迷ってしまったという言葉を聞いて、私は目の前に立つ男性を見上げた。
 明らかにアジア人である私に声をかけてきた事に一瞬警戒したけれど、見たところ旅行者のような雰囲気が漂っているし、スリ目的ではなさそうだ。ロシアでは英語が通じないことも多いから、ロシア人ではない私なら英語が通じると思ったのかもしれない。

「How can I get to Sevastyanov's House?」

 エカチェリンブルクの観光名所の1つ「セヴェスチアノフの家」までの道程を訪ねられ、ここからの行き方を考える。多分メトロに乗るのが一番早く辿り着けるはず。念の為スマホで確認してメトロの乗り場と降りる駅を伝えた。

「Okey. Thank you!」
「No problem. Have a good day」
「You too」

 そして顔を綻ばせながらお礼を言ってくれた男性と入れ違うように衛輔くんがやってくる。
 その姿が視界に入って私の心は春がやってきたように華やぐ。待っている時間も好きだけど会えたその瞬間もやっぱり大好きだ。

「名前。悪い、待たせた?」
「ううん。そんなことないよ」
「今の、誰?」

 去っていた男性の後ろ姿を見つめながら衛輔くんは言う。道を聞かれたから答えてただけだよ、と事実を言う前に、衛輔くんのダークブラウンの瞳が私のほうを向いた。

「もしかして声かけられた? 変なことされてないよな? 遅くなって本当に悪い」
「ち、違う違う! ただ道を聞かれただけ! さすがに美女が多い国でナンパはされないし、一応スリも警戒はしてたから」
「なら良いけど。スリに関しては引き続き警戒してもらうとして、ナンパされないは言い切れないだろ。そこも警戒してもらわねぇと困る」
「されないよ。衛輔くん、過保護だ」

 だってロシア人の女性は同性の私でさえ目を引く人が多いのだから。日本にいたら話は違ったとしてもやっぱりここロシアではナンパ目的で私に声をかけてくる人はいないと思う。

「過保護で結構。仕方ないだろ、名前は可愛いんだから」

 それはかなり衛輔くんの欲目が入っている気がするけれど。まあ、でも悪い気はしない。つい口元が緩んでしまうのを頑張って耐えた。
 そんな私の気持ちを知らない衛輔くんは自然に手を取り、指を絡めてくる。少し冷えた私の指先が温もりを保ったままの衛輔くんの手に触れ、じんわりと体温を上昇させる。

「ってわけで名前はナンパにも気をつけること」
「あはは。はーい、わかりました」

 もし世界で一番カッコいいと言われる人に声をかけられたとしても、呆れるほどしつこい人に言い寄られても、私の心は揺れないし毅然とした態度をとるだろう。それは衛輔くんが私を好きでいてくれるからであり、私が衛輔くんを好きだからこそ、だ。
 ただ少なくとも世界で一番カッコいい人から声をかけられることはないだろうし、私にとって世界で一番カッコいい人は衛輔くんだからそもそもこの考え方は破綻してしまうんだけど。

「コラ。人が真剣に言ってんのに何ニヤニヤしてんだよ」
「ええ、ニヤニヤするの我慢してたんだけど顔に出てた?」
「出てた」

 繋いでいない方の手で衛輔くんが私の頬を優しくつまむ。冷え切った頬に衛輔くんの体温は温かすぎるくらい。その指先が離れていっても温もりだけが優しく残る。

「出ちゃってたか」

 わざと、軽い調子で肩をぶつけた。

「おい、歩きにくいだろ」
「歩きにくくしてるんですー」
「ったく。子供かよ」

 衛輔くんが小さく笑う。その表情を見て私は満足する。私の幸せが可視化されたって感じ。

「あ、そうだ。来週は俺んち泊まる? いつも名前のとこばかりじゃ悪いだろ」
「いいの? じゃあ来週は衛輔くんのところ行こうかな」
「よし」

 春はまだ遠い。ぐっと冷え込む日々もはらはらと雪が降り続けると日々もまだ続くけれど、冬はやっぱり嫌いじゃない。

(22.03.12)