55


「国内旅行?」
「うん。ロシアに居られるうちにモスクワかサンクトペテルブルクに行ってみたいなって。私、エカチェリンブルクしか滞在したことないから」
「良いんじゃねぇの。試合と遠征でどっちも行ったことあるけど、どっちも良い街だったし」

 カフェの一角で衛輔くんと対面する形で座る。現時点では私が1人で旅行をすると思っているに違いない。誘って、断られたら1人で行こうとは思うけれど、続く言葉に頷いてほしいと願いながら口を開く。

「……それで、その、もし都合がつけばなんだけど、衛輔くんと一緒に行けたら嬉しいなって」
「俺と名前でってこと?」
「もし! もしだから! 衛輔くんがもし大丈夫なら!」

 衛輔くんは嫌がる様子も驚く様子も見せない。ただ、自分への予防も兼ねて強調する。あっさり断られたら、それもそれでやっぱり少し悲しいし。

「はは、そんなに必死に言わなくていいって。俺も一緒に行けたら楽しそうだなって思ったから」
「じゃあ……?」
「一緒に行こうぜ。予定合わせてさ」
「い、いいの? 本当に? え、後で無理って言っても私耳塞ぐよ!?」
「なんでそんなに驚いてんだよ。後から無理なんて言うわけないだろ」

 くつくつと笑いながら衛輔くんはホットコーヒーを口に運ぶ。

「断られたらどうしようとか考えてたんだよ。……まあ、その時はひとりで行くけどさ」
「俺も名前一緒に遠出したいって前々から思ってたし」
「嬉しい。じゃあ、初めての旅行だね」
「そう言うことになるか」

 同じベッドで眠ることも、すっぴんを見られることも、朝の寝癖を直してもらうことだって経験しているのに改めて言葉にすると期待の中にほんの少しの緊張が生まれた。
 きっとまだ私の知らない衛輔くんはいて、この旅行でその片鱗を見ることが出来る気がしたからだろうか。そう遠くはない未来に思いを馳せると、それだけで心臓がキュンと甘い声をあげる。

「楽しみ」
「ん。だな」
「……私の顔に何かついてる?」

 頬杖をつき、じっと私を見つめる衛輔くんの視線に気づいて問いかける。

「いや」

 一緒に注文したドーナツのチョコレートが口についているんじゃ……と不安になった私に、衛輔くんはゆるく首を横に振った。

「そんな風に喜ぶんだったら、もっと早く俺から誘えばよかったなって」

 嬉しいしこの喜びを隠すつもりはないけれど、まるで子供に言うみたいに微笑ましく言われると少し恥ずかしい。私だけが舞い上がってるみたい。いや、実際私は凄く舞い上がっているんだけど。咳払いをし、平然を保って、誤魔化すように会話を続けた。

「衛輔くん、たくさんいろんなところ行ってるからどこに誘ってくれるのか気になる」
「んー……国外ならやっぱりサンクトペテルブルク、モスクワ辺りだろうし、ロシア以外だったらドイツとか? 西欧まで行くと同じヨーロッパでも結構雰囲気変わるし面白いと思う」
「ドイツ!」
「あとは王道だけどイタリアとか? メシ美味い国はやっぱりいいよな。甘いものならフランスとかベルギーだと思うけど。友達にさ、世界中いろんなとこ行ってる奴がいんの。今度おすすめの国聞いてみるわ」
「衛輔くんに言われると全部行きたくなる。絶対楽しいってわかるから。でもそんなたくさんの国行くの難しいよね。いつか行けたらいいなとは思うけど」

 まだ見ぬ国へ思いを馳せる。ワクワクするのは、想像の中に衛輔くんがいるからなんだと思う。代わり映えのない毎日も、特別な1日も、キラキラと彩ってくれる人がいるから私はいつも笑顔でいられる。

「行こうぜ」
「え?」
「今回は行けなくても、来年、再来年。5年後、10年後だって一緒にいるんだから、じいちゃんとばあちゃんになるまでには行けるだろ」
「そう、だね」

 衛輔くんの言葉に驚く。だけど、私はやっぱり平然を保つ努力をした。当たり前のように何年も先の話をしてくれることが面映くて、嬉しすぎたから。
 10年後なんて先の未来、自分がどこにいて何をしているのか全然想像出来ないけれど、願わくはどうか、いや、願わずとも、私の隣に衛輔くんがいてほしい。
 温くなったコーヒーを口に運ぶと、苦くも芳醇な香りが鼻から抜けていく。

「んじゃあまずはモスクワかサンクトペテルブルクか、どっちにに行くか決めないとな」
「う、うん!」

 こんな日々が積み重なった先にある未来は、きっと、絶対、何よりも素晴らしい気がする。

(22.03.13)