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 衛輔くんと会うのは1週間ぶりでも、部屋に入るのは久しぶりだった。それこそ付き合ってからは初めてだと思う。
 玄関から伸びる廊下の先にあるリビングを思い出すと得体の知れない緊張が私を襲った。さっきまで街中で楽しくデートをしていたのに急にしおらしくなるなんて、衛輔くんは笑うだろうか。
 
「お、お邪魔します」
「そんな緊張すんなよ。前も来ただろ?」
「その時は他の人もいたし、付き合ってもなかったし……それに、泊まる予定もなかったし」

 緊張の色を隠せない私に、衛輔くんは笑みを向ける。インテリアの配置も部屋の香りも何一つ変わってないのに、全然違う部屋に来たみたい。

「安心しろって。いきなり取って食ったりしねぇから」

 含みのある言い方。いきなり、じゃなかったらとって食ったりするんだろうか。もちろんそういう事になると想定して来ているけれど。だけど足を踏み入れて早々こんな事を考える彼女、さすがの衛輔くんも笑うんじゃなくて呆れるかもしれない。

「名前?」
「アッうん! いや! ハイ!」

 動揺を隠せず、あからさまに反応した私を見て衛輔くんは肩を震わせる。思春期じゃあるまいし、やっぱりこんなの可笑しいよね。だけど衛輔くんのもので溢れた空間は、まるで私を包み込むかのようだから意識せずにはいられないのだ。

「なに、期待してる?」

 衛輔くんが楽しそうに言う。これはもうあれだ。衛輔くんの私をからかいたいスイッチが完全にオンになっている。わざとらしく私を壁に追い詰め自由を封じた。ほら、絶対に私の反応で遊ぼうとしている。自分の部屋だからなのか、いつもよりも衛輔くんがイキイキしているように思えた。

「き、期待?」
「俺はもちろん期待してるけど。今すぐ取って食っていいなら食いたいし」

 どこまで本気なのかわからなかったけれど、このまま衛輔くんのペースに乗せられては反撃の余地がますます無くなるだけだと、私は眼前にあるその瞳を見つめ返した。

「……してないわけじゃない。けど、後でね」

 顔を近づける。少し背伸びをして顔を傾ければ、触れ合う唇。柔らかく、少しだけ冷たい。
 私がそんなことをするなんて想像していなかったのだろう。唇を離すと衛輔くんの驚いた顔が目に入った。

「いや……そんなことされるとマジで今すぐしたくなるんですけど……」

 ため息と同時に言われる。
 私の肩に衛輔くんの顔が埋められたかと思うと、首筋に生温い何かが這った。軽く吸い上げられて、離れる瞬間、静かな室内に残ったリップ音が空気を揺らす。痕が出来るほどではない。ただ、私の羞恥心を引き出すには十分だった。

「後でがっつり抱く」
「……がっつり」
 
 思わず同じ言葉を口にした。がっつり。がっつりってどんな風に。私はどんな風に衛輔くんに抱かれるのだろうか。いや、やっぱりこんなこと考えてしまうなんてはしたないって思われるかもしれない。

「とにかく、一旦座って落ち着こうぜ。飲みもん用意する」
「え、あ、手伝う?」
「平気平気。適当にくつろいでて」

 こういう時の適当って迷う。今まで散々私も衛輔くんに向かって同じ言葉を言っていたはずなのに。部屋を見渡して、ベッドサイドにあるオットマンに腰をおろした。
 キッチンから飲み物を持ってきた衛輔くんが、ローテーブルにトレイを置くと眉尻を下げて言う。

「悪い。今、キーラから連絡あって、あと少しでここに来ることになったけど平気?」
「キーラ? いいよ。私、居ないほうがいいなら帰ろうか?」
「いや、帰る途中だったんだけど急に吹雪いてきてトラム動いてないからしばらく避難させてほしいってさ。近くで飯食ってたらしい」
「え、吹雪いてるんだ?」

 立ち上がってカーテンの隙間を覗く。先程までは綿みたいな雪が降っているだけだったのにいつのまにやら姿は変わり、外では雪が横に吹き荒ぶ光景が広がっていた。
 暗くなった外に街頭の光が映える。部屋の中は暖かくても、その光景を見ているだけで寒さを感じる程だ。

「キーラ大丈夫かな。すぐ止むといいけど」
「大丈夫だろ。少なくとも吹き飛ばされはしない」
「あはは。キーラ体躯良いもんね」

 そんな風に話しをしているとインターホンの音が部屋に響いた。キーラだ。衛輔くんが言うように本当に近くにいたのだろう。あっという間の到着に、それでも私は安堵した。キーラが私を見るなり腕を広げる。軽くハグをすると、頬に触れたコートの生地が冷たくて思わずキーラを見上げた。

「寒かったでしょ」
「ウォッカを飲んでたからそれほどでもなかったけど、急に吹雪いたから困ってたんだ。悪いな、二人きりのところ。吹雪が収まったら俺は出ていくから」

 笑ったときの目尻がソーニャに似ている。私はいつもそう思う。家主じゃないから好きなだけ居ていいよとは言えないけれど、私はちょっとだけ気が楽になったなと胸をなで下ろした。
 衛輔くんには内緒だけど。

(22.03.18)