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 翌日は底冷えするような寒さだった。昨夜、やけに星が澄んで見えると思ったけれど案の定だ。朝日を浴びてキラキラ光る雪の山が少し眩しくて目を細める。

「昨日よりずっと寒いね」
「まあ、寒くてもとりあえず晴れてよかったよな」
「だね」

 昨日より柔らかさが減った雪の上を歩く。
 サンクトペテルブルクは公共交通機関も発達しているからどこへ行くにも困ることはない。トロイツキー大聖堂へ向かうトロリーバスに乗って、昨日は通らなかった知らない通りの景色を目に入れては朝からまた心が踊った。
 ロシアの大手スーパー。コンビニ。世界的チェーンのバーガーショップ。公園。大学。それらは全て誰かの日常だけど、私にとっては非日常。

「トロイツキー大聖堂ってドームが星模様のやつだっけ?」
「そうそう。あとその近くに美味しいグヤーシュのお店があるってソーニャから聞いたんだ」
「へぇ。楽しみ」
「グヤーシュ、こっちにきて初めて食べたんだけど美味しいよね」
「俺まだ食べたことねぇわ。ハンガリーのスープだっけ?」
「うん」

 ロシアへ来てからどれほど多くの「初めて」を経験しただろう。初めての土地に、初めて食べる他国料理。ロシアの年越し、クリスマス。日本を飛び出さなければシャルロートカの名を知ることだってなかったかもしれない。
 そして今は、そんな私のそばに衛輔くんがいる。一人だったら気付けなかったこと。二人だからこそ知れること。そういうものが溢れた毎日で良かったと心から思う。

「温かいスープも良いけど、ここまで寒いとやっぱり温泉入りたくなるなぁ」
「こっちじゃそういうのないもんな」
「湯上がりのコーヒー牛乳!」
「そこは普通の牛乳だろ」
「やっぱり衛輔くんは牛乳派か。あれだね、今度は日本で温泉旅行もしてみたいね」
「俺も同じこと思った」
「まあ現実問題なかなか難しそうだけど、叶えられたらいいな」

 旅行が終わってロシアのリーグも終わって、衛輔くんが日本代表に合流したらこんな簡単には出かけることは叶わなくなるだろう。私の帰国と衛輔くんのこれからを考えると、これまでと同じようにいられるのは不可能だ。
 だからってそれを不満にも不安にも思わないけれど、そんな風に変わっていく中でも、お互いが心地良いと思える寄り添い方を模索していければ良い。

「……衛輔くん?」

 だけど、衛輔くんは考えるような仕草を見せた。

「いや、確かになかなか難しいよな……」

 まるで独り言のような言い方だった。ただ深刻な様子はなく、ほんの少し意識を別のところへ飛ばして何か大切な事を考えているような、そんな横顔。

「や、でもほら、こうしたいって思ってすぐに叶っちゃうより叶えたい事をずっと持ち続けるのも楽しくない?」
「ん? ああ、わかってる。別に今すぐどうこうしようとかは思ってないから。ただまあ、先々のこと考えたらいろいろ決めておかないとなって思っただけ」
「決めるって何を?」
「まだ内緒」

 なにそれ気になる。上がった口角。含みのある言い方。詳しく聞いてみようとしたけれど、トロリーバスがトロイツキー大聖堂の近くに着いて結局この話題はそれきりとなった。
 通りを渡ると太陽の光を受けた白い壁が目に入る。青く塗られたドームの中に散らばる星がまるでおとぎ話に出てくるような可憐さを持っていた。

「やっぱりかわいい」

 北西側の方へ歩くと露天が並ぶマーケット街があったけれど、見たところ観光客らしい様子の人もいないのでここはきっと地元の人たち向けの場所なのだろう。

「観光名所に行くのも良いけど、こういう現地の人向けの場所も風情があるよね。その土地の雰囲気がより一層伝わってきて楽しい」
「大聖堂の中入る前に、歩いてみるか?」
「そうだね。ちょっとだけお邪魔させてもらおうかな」

 マーケットの入口にはトロイツキー大聖堂へ来た人をターゲットとしたお土産品が売っている。しかし奥へ行くと売り物も食品や生活用品が並ぶようになって、価格もまた求めやすいものへと変化していた。

「あ、ここのプイシュキ美味しそう」

 そんな中で見つけたのはおしゃれな外観をしたカフェだった。店先にある看板にはサンクトペテルブルクの名物であるプイシュキの絵が書かれている。

「食う?」
「ホテルの朝ごはんまだお腹にのこってるし、たくさん食べちゃってグヤーシュ食べられなくなるのも悲しいから半分こしませんか」
「仕方ねぇな」
「やった!」

 苦笑しながらもお願いを聞いてくれる衛輔くんにお礼を言う。
 カフェに入ると冷えた肌を優しく撫でる温かい店内の空気。紅茶を2人分とプイシュキを1つ。ロシア語で注文をして席につくと、すぐに注文の品が運ばれてきた。
 1つ15ルーブル。お皿の真ん中に置かれた、粉砂糖がかかったプイシュキ。それほど大きいわけではないけれど、この後にはグヤーシュも控えている。

「なんだかんだ昨日も食べちゃったから体重計乗るの怖い」
「脂肪になる前に動けば大丈夫だって」
「……筋トレ?」
「筋トレ」

 それもそっか、となってしまったのもまた衛輔くんに出会ったからこそだよなぁと密かに思っていた。

(22.8.11)

※プイシュキ……ドーナツのようなお菓子