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 トロイツキー大聖堂を見学し、グヤーシュを食べ、ネフスキー大通りを歩けばあっという間に夕刻となった。
 残りの時間を意識しながら歩くネヴァ川沿い。燃えるような太陽がサンクトペテルブルクの街を照らしている。夕陽を浴びた建築物達は、薄暗くなりゆく中でその姿を一層際立たせていた。
 昨日と今日の時間を思い返しながら、それでも終わりゆく非日常はやっぱり美しい。

「綺麗な夕焼けだね」
「名前の顔、赤く染まってる」
「それを言うなら衛輔くんだって」

 間を抜けるように肌寒い風が吹く。マフラーのフリンジが揺れて少しくすぐったい。太陽が沈みゆくネヴァ川を見つめながら衛輔くんに問う。

「衛輔くんはサンクトペテルブルクで何が1番印象に残った?」
「1番? どれもこれも楽しかったから選ぶとなると難しいな」
「だよね。美味しい食べ物とか歴史のある建物とか観光地特有の賑わいとか、私も全部楽しかった」

 笑いかけると、衛輔くんが柔らかい笑みを返してくれる。

「今までは試合の為に来る場所だったけど、これからまたここに来るたび名前と旅行したことを思い出すんだろうなって思う。そういうのはまあ、なんつーか、悪くない」
「あはは。そっか。そんな風に思い出してもらえるのは嬉しいな」

 1泊2日の時間は駆け抜けるように過ぎていったけれど、それでも、サンクトペテルブルクでの思い出はこれから先もずっと記憶の中に存在し続ける。

「ここ何時に出れば飛行機間に合うんだっけ?」

 その言葉に時計へ目をやった。秒針は今も、ゆっくりと時を進めている。

「えっと……1時間後かな? だからあと少しだけ余裕あるよ」
「そっか」
「エカチェリンブルク着いたら連絡するね」
「別にまたすぐ会えるってわかってるけどさ」
「うん?」
「それでも、もっと一緒にいられればいいのにって思う」

 鼓膜に届いたその声はとても穏やかで、だけど、何かを渇望するような切なさも帯びていた。
 今この瞬間の事を指しているはずなのに、これから訪れるであろう日々を示しているようにも思えたのはきっと私の気のせい。

「衛輔くん」
「ん?」

 衛輔くんの顔が向けられる。赤く染まった頬は夕焼けのせいなのか、それともこの冷たさのせいなのか。
 言うか、迷った。
 だけど、口を開いた。

「衛輔くんが違う国にいて会えない時も、衛輔くんを好きって気持ちだけで私、結構毎日楽しいよ」

 目を見張った衛輔くんの瞳に私だけが映る。
 強いメッセージ性を込めたわけじゃない。ただ、私の毎日がどれほど鮮やかに彩られているのか少しでも伝わったら良いなとは願っていた。

「急だな」

 衛輔くんは少し困ったように笑う。
 それはとても優しい笑みだった。

「急に言いたくなっちゃった」

 心は凪ぐ。もう少し。もう少し。僅かばかり残された時間へ想いを馳せる。

「衛輔くんにはちょっと無理させちゃったけど、やっぱり旅行してよかったよね。これからもこうやって一緒にいろんなとこ行けたら嬉しいな」
「そうだな」

 衛輔くんが私に近寄って肩と肩が触れ合った。コート越し、体温なんて感じることは出来ないのに、でも、それだけでずっと温かい。

「最後に写真でも撮っておくか」
「え、髪ボサボサじゃない? 大丈夫?」
「かわいいかわいい」
「それ適当なやつ!」

 肩に腕が回って、距離はぐっと近づく。今度は衛輔くんのマフラーが頬にあたってくすぐったい。スマホの画面いっぱいに映る私と衛輔くん。そして夕暮れの景色。この2日間で何度もそうしたように、衛輔くんがシャッターボタンを押した。

「後で写真全部送るわ」
「うん。私が撮った写真も後で送るね」

 気付けば写真が溢れかえったフォルダ。これからもこんな調子で増え続けていくのだろう。何気ない日常や特別な時間を切り取った瞬間が。
 大きく息を吸い込む。冬の終わりの、冷たい空気。煌々と夕陽は照る。

 サンクトペテルブルクでの滞在は、こんな風に優しい時間の中でゆっくりと幕を閉じようとしていた。

(22.8.13)