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 サンクトペテルブルク旅行から戻ってきて1ヶ月もするとエカチェリンブルクの街にも春めいた空気が姿を現すようになってきた。
 柔らかい太陽の日差しが今日もカフェに降り注ぐ。
 店内には2組のカップルと、お客としてやってきたレルーシュカの姿がある。久しぶりに顔を合わせるレルーシュカは私が思っていたよりも元気そうでほっと胸を撫で下ろした。紅茶の入ったカップをテーブルに置き、そっと声をかける。

「レルーシュカ、脚の方はどう?」
「もうそろそろギプスも外れる予定。歩けるようになったらこれまでの分しっかり働くから任せて」

 レルーシュカが自宅の階段から転んで足関節を骨折したという報せが入ったのは私がサンクトペテルブルクから戻ってきた次の日の事だった。

「あんまり無理しないでね」
「ええ。でも見た目ほどじゃないから。それに私の代わりを務めているせいでモリスケと会う時間を作れないのは申し訳ないもの」
「気にしないで。衛輔くんも今忙しいから最近は全然会えてないんだ」
「まだシーズン中だっけ?」
「うん」

 予想していた通り、衛輔くんはあれからずっと忙しい日々を過ごしている。
 ただチーグルの調子や雰囲気はとても良いみたいだし、このまま順調にいけば決勝ラウンドにも進出すると言っていたから、その活躍を想像するだけでなんだか自分のことのように嬉しくなって会えない事を不満に思う瞬間は一度もなかった。

「でも今日は久しぶりに会う予定なんだよね」
「だから幸せそうな顔なの?」
「ええ? いつも通りの顔だよ」

 レルーシュカが小さく笑う。「なら、ナマエはいつも幸せってことね」と柔らかい声色が鼓膜に届いた。その言葉に瞬きを繰り返す。
 楽しいや嬉しいを感じる瞬間が増えた実感はある。エカチェリンブルクに来た日から。衛輔くんと出会った日から。もっと言うと、衛輔くんと付き合ってからはそれが更に増えた。

「確かに……寒くてベッドから出るのが嫌になったり給料日前は節約ご飯になっちゃったり大変なこともあるけど、結局は毎日幸せだって思ってるかも」
「そう思えるのはモリスケがいるからっていう理由だけじゃなくてナマエ自身が物事を前向きに捉えようとしてるからよね」

 そうなのかな。でも、だとしたらそれは衛輔くんがそんな風に前を見据えているからだ。知らぬ間に感化されて、そしてそれが私の身体に染み付いた。

「衛輔くんとの出会いそのものが、私の人生にとっての最大の幸福だったのかも」
「あら。それならやっぱりナマエにとってモリスケは運命の相手ね」

 レルーシュカがさらりと言うものだから、仰々しい単語に照れることすら忘れてしまう。
 運命の相手とか赤い糸とかそういうものを考えたことはないけれど、衛輔くんがいない人生を今はもうすっかり考えられなくなってしまった。
 それは良い事なのか、それとも。
 ただ、だからこそ、と思う。
 だから。だからこそ。

「でもね。そればっかりじゃなくて私も衛輔くんに、私がいるから幸せって思ってもらいたいと思うよ。与えてもらうばかりじゃなくて与えたい。幸せを共有したいって」

 道端に咲く花がより美しく見えたり、カフェで飲んだコーヒーがより美味しく感じられたり、そういう細やかなもので良いから私も衛輔くんの人生を彩れるスパイスになれていたら良い。

「ずいぶん情熱的な話をしてるね?」
「ナスチャ! と衛輔くん!?」

 その時、後ろからナスチャの声が届いた。振り返るとその隣には衛輔くんも立っている。いつの間に入店していたのだろう。気付かないくらい語っていた自分にも羞恥を覚えた。

「ナマエ、おつかれ。もうそろそろ交代の時間だから帰る準備してよ。今日はモリスケとデートなんでしょ?」
「ありがとう……」

 私の表情をみて考えていることを察したのか、衛輔くんが言う。

「一応今から行くって連絡したんだけど見てなさそうだな。そこの曲がり角で偶然ナスチャと会って、そのまま一緒に来た」
「じゃ、じゃあ、さっきのレルーシュカとの会話聞いてた?」
「まあ……そこそこ?」
「……もっと早く声かけてくれればいいのに」
「いや遮れないだろ、あのセリフは」

 ハッとしてレルーシュカを見る。レルーシュカの座る位置からはちょうど通りが見えるし、二人がやってくることを早々に気付いていたはずだ。

「ごめんなさい。二人が来たわって言おうとした時にはナマエが口を開いてて」
「……ううん。私が変に語っちゃったから。ナスチャも来たし最後にちゃんと仕事してから退勤するね」

 逃げるようにその場を去ろうとする私を衛輔くんが呼び止める。

「名前」
「うん?」
「名前が思ってる以上に俺は名前から幸せもらってるからな」
「……そう?」
「おう」
「そっか。じゃあ、安心だ」

 穏やかな昼下がりの空気は少しくすぐったい。だけど私は今、宇宙で一番幸せな場所にいる。

(22.8.22)