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「名前!」

 静寂の隙間を抜けるように衛輔くんが私の名前を呼んで駆けてくる。夜の帳はすっかり落ちきって、見上げると満点の星が目に入った。
 呼び出された時間は夜9時。あと10時間もすれば衛輔くんは飛行機に乗ってロシアを発つ。出発前夜の束の間の逢瀬。まるでこれから映画の重要なシーンを撮るのではないかというようなシチュエーションだ。

「衛輔くん」
「急に呼び出して悪かったな」
「ううん、全然。ごめん、こんな格好で」
「いや、俺も割と適当だから」

 急いで部屋を出たからジーンズにTシャツというラフな出で立ちになってしまったものの、すぐに待ち合わせ場所に向かう方が大事だった。私の住むアパルトマンから少し歩いたところにある公園。立地的にこの時間帯に人が通ることはないが決して治安が悪いわけではない。
 ぼんやり灯る街灯の光。ぽっかり浮かぶ月明かり。衛輔くんの頬に落ちる影を見つめながら口を開く。

「それより衛輔くん明日出発なのに大丈夫?」
「明日出発だから名前の顔見たくて」

 恥じらいも躊躇いもないストレートな言葉に甘く揺れる心。つい2日前の約束で会うのは最後になるだろうと思っていたのに、こうして対面してしまった今はこの瞬間が訪れて心底良かったと感じてしまう。
 今から会いたいと連絡が来たときは驚いたけれど、衛輔くんが言ってくれなかったらもしかすると私が言っていたかもしれない。

「もうしばらく会えないと思ってたから、会えて嬉しい」

 小さく笑ってはにかみながら言えば、両手で優しく頬を包まれてキスをされた。確かに周りに人は誰もいないけれど、珍しく早急な行動に瞼を下ろすことすら忘れる。
 私達の間を抜ける夜風。肌に触れる夜の音。記憶からキスの余韻を探し、唇に乗せる。満足そうに口角をあげる衛輔くんを見て、後でもう一度してくれないだろうかと密やかな願望を抱いてしまった。

「俺も」

 その言葉と表情に突如訪れる既視感。そう言えば去年の今頃もこのくらいの時間帯だった。

「去年もこんな風に夜に会ってたよね。覚えてる?」
「覚えてるに決まってる。あの時どうやって意識してもらうかとか気持ち言うかとかすげぇ考えてたし。結構緊張してたの知らないだろ」
「そうなの? 全然気が付かなかった。だって衛輔くんいつも余裕あるんだもん」
「そりゃあ好きな子の前では出来るだけ余裕のある男でいたいからな」
「あはは。余裕のない衛輔くんでもいいのに」

 今もあの時のように優しい夜が目の前にある。一年をかけてゆっくりと変わった関係性。衛輔くんが踏み出してくれたから、私も今こうしてここにいる。
 好きって気持ちが膨らんで、どんどん大きくなって、時々独りよがりだろうかと心配を覚える時もあったけど、少しわがままな自分も悪くないと思える。
 ほらまた今も「好きだ」って身体が言う。
 迷ったのは一瞬だった。何を躊躇う必要があるのかと、次の瞬間には衛輔くんの胸元に頭を預けていた。柔軟剤に混ざる衛輔くんの香り。服越しの筋肉。ともすれば泣いてしまうような優しい切なさをもっている。

「名前?」
「充電」

 衛輔くんの腕が背中に回る。寂しくない。けど、きっと不足はする。記憶に刻むように五感で衛輔くんを感じたかった。

「珍しいな、外で名前から触れてくるの」
「……誰もいないし、人の気配を感じたらすぐ離れる」
「じゃあ誰も来るなって念じておく」

 頭上から降る温かい声。私も念じてる。誰も私達を見つけないでって。一秒でも長く世界から隠してって。

「今年はいっぱい連絡するよ。綺麗な花の写真とか美味しいコーヒーの話とか、オチがないようなくだらない事もたくさん伝えたい」
「おう。楽しみにしてる」
「衛輔くんも連絡してね」
「当たり前」
「衛輔くん」
「ん?」
「キスして」

 衛輔くんが緩く笑う。

「仰せのままに」

 誰もいない静かな公園の片隅。今度はゆっくりと手が添えられ、唇の形を縁取るようなキスをされた。
 衛輔くんがいる日常はしばらくお預けだ。それは私にとって確かに物足りない日常だけど、衛輔くんがいないエカチェリンブルクだってそれはそれで楽しい事を知っている。
 だから衛輔くんのいない日々を私は私なりに楽しむのだ。また会える日まで。今度は私がエカチェリンブルクを去る日まで。

「いってらっしゃい、衛輔くん」
「おう。いってくる」

 夜のしじまに私たちの声が小さく揺れた。

(22.8.24)