67


 エカチェリンブルクから衛輔くんがいなくなった毎日は、それでもやはり、滞ることなく過ぎていった。

『今、何してる?』

 さらりと肌を撫でる初夏の空気。衛輔くんから届いていたメッセージに目を通し、駆け足でトラムの乗り場へ向かう。次にやってくるトラムに乗れなかったらタクシーを呼ばなくてはいけないことになるからと返事は後回しにした。
 あと少しで日付が変わってしまうような時間帯。こんな遅くまで仕事をするのは珍しいから、先程まで私が職場にいたなんて衛輔くんは露ほども思っていないはずだ。
 夜を掻き分け、トラムの光が届く。間に合った事に安堵しながら乗り込み、ようやく返信の文章を打てると背もたれに体重を預けた。

『今仕事終わったところなんだ』
『今? 遅くねぇ?』
『今日ちょっとバタバタしてて。それで閉店後も仕事してたんだよね。トラム乗れるかひやひやしちゃった』

 日本代表の試合があるからと、西ヨーロッパに滞在している衛輔くんとの時差は数時間。海外に滞在するときはホテルも一人部屋になる事が多いと言っていたし、今頃衛輔くんは夜のひとときを過ごしているのだろう。果てもないような陸の向こうにいる衛輔くんが驚いている様子が脳裏に浮かぶ。

『間に合った?』

 時々、無性に会いたいなと思うこともある。本当にふとした、例えば街中で幸せそうなカップルとすれ違った時とか。会いたいと言葉にすることはないけれど、隣に衛輔くんがいてくれたらいいのにな、なんて。けれどそういうときに限って衛輔くんは電話をかけてきてくれて、それがなんだか心を読まれているみたいで面白くって、結局そんな淡い欲望はゆるゆると萎んでいくのだった。

『うん。でも最終だから乗り換えは無理で、ちょっと歩くことになるかな』
『じゃあトラム降りたら電話して』

 あ、でた。衛輔くんの過保護なところ。

『わかった』

 早く、トラムが降り場につかないかな。揺れて、揺れて、揺られながら、だけど私は強くそう思う。過ぎ去っていく夜の街。中心部を離れるに伴って街を照らす灯りは減り、停留所に着くたび乗客も減ってゆく。
 数分後、トラムから降車した私は真っ先に衛輔くんへと電話をかけた。

『もしもし』

 3コールの後、衛輔くんの声。それだけで心がふわりと軽くなる。

「もしもし」
『そっちもう日付変わるくらいだろ』
「うん。それまでには部屋に着きたいけど」
『忙しかった?』
「明日からエカチェリンブルクの市内で行われるイベントに参加することになって、それの準備が忙しくて」
『イベント?』
「あ、私たちは飲食店として出店するだけなんだけど。ほら、クリスマスマーケットにある小屋みたいな感じで」
『ああ、なるほどな。じゃあ明日も仕事?』
「うん」
『無理はすんなよ』
「うん。わかってる」

 夜空に浮かぶ小さな星を見上げながら衛輔くんの声に耳を傾けた。私の足音と木々が揺れる音が混ざり合う。
 今、私が歩幅を小さくしていることを知ったら衛輔くんは呆れるだろうか。それとも怒るだろうか。だって部屋に着いたら着替えなくちゃいけないし、お風呂にも入らなくちゃいけない。スキンケアをしたらきっとすぐに眠くなってしまうから衛輔くんの声を聞けるのはこの道を歩いている間だけ。アパルトマンに着くまでの短い時間だけ。

「そういえば来月、衛輔くんの誕生日だよね。プレゼント、欲しいものあったら教えてね。すぐには渡せないけど用意しておく。あ、でもお祝いの連絡はするから!」
『気が早いだろ』

 もっと夏が深まったらやってくる衛輔くんの誕生日。話題に挙げるには少し先の日の事を口にすると、衛輔くんはそう言って笑った。

「だって楽しみだから」
『名前が?』
「そう、私が」
『まるで名前の誕生日がくるみたいだな』
「自分の誕生日より衛輔くんの誕生日のほうが楽しみなんて不思議だけど、衛輔くんにはたくさん喜んでほしいし、たくさん幸せであってほしいって思うから」 

 アパルトマンの外壁が見えてきた。月明かりに照らされて、建物がぼんやりと浮かび上がっているようにも見える。

『まあ……でも、わかる。俺も名前の誕生日どうやって祝おうとか何プレゼントしようとかすげぇ考えるし、名前の喜ぶ姿想像すると結構楽しいし。あと、誰よりも幸せであってほしいし』
「……どうしよう自分の誕生日が楽しみになってきたかも」
『おい、現金だろ』
「あはは。だって衛輔くん私を喜ばせる天才だから」

 足を止める。帰路の終わり、肺いっぱいに吸い込んだ夜の空気。電話を切る時間がやってきた。

『そろそろ部屋着きそうか?』
「うん。もう目の前」
『じゃあ切るか』
「うん」

 名残を惜しさを孕ませたしばしの沈衛。交わすべき言葉は決まっている。

『おやすみ、名前』
「おやすみ、衛輔くん」

 通話を終えてもなお、その声が頭の中で反芻されている。今日もまた、衛輔くんのいないエカチェリンブルクが終わろうとしていた。

(22.8.26)