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 開け放った窓から涼しい風が入ってくる。湯上がりの火照った身体を冷ますその風は心地良く、穏やかな静けさは眠気を誘うほどだった。
 日中は夏らしい気温でも夜になれば肌寒い時間もあるエカチェリンブルクの8月8日。本当は0時ぴったりにおめでとうと言いたかったけれど、今年もまた去年の如くギリギリになってしまった。文字を打つ手を止める。まだ起きてますようにと願いながら押したのは通話ボタン。

『もしもし、名前?』
「もしもし。遅くにごめんね。まだ起きてた?」

 数回のコール音が途切れ、聞こえてきた普段と変わらない衛輔くんの声色に安堵する。

『起きてた。まあそろそろ寝ようとしてたところだけどな』
「わ、ごめん。用件言ったらすぐ切るね。結局今年もギリギリになっちゃったけど、衛輔くん誕生日おめでとうって言いたくて」

 今は日本にいるという衛輔くんが国の代表として、試合に出たり合宿を行ったりメディアやSNSでの活動をしたりと忙しい日々を過ごしている事を知っている。今日だって国内で強化合宿の為に遠方へ出向いていることを公式SNSが教えてくれた。
 落ち着かない生活に体調は大丈夫だろうかと心配にもなるから、あまり長話はしないでおこうと心に決める。それでも、どうしても声で伝えたいと思った気持ちだけは揺らがない。

『今年もまた忘れられたかと思った』
「去年だって忘れてないよ」
 
 ぼんやりと思い浮かぶのは一年前の今日の日。あの時はどう寄り添ったら良いのかわからなくて、距離の詰め方も手探りで、だけど、それはそれで面映くて気持ち良かった。あの歯がゆさはもう滅多に味わう事は出来ないかもしれないけれど、今年もまたこうして祝福の気持ちを伝えられる事を嬉しく思う。

「それに今日、衛輔くんが泊ってるホテルでサプライズのケーキ運ばれてたよね? 公式のSNSにアップされてた動画見たから、落ち着いてる時間帯のほうがいいかなーって思って敢えてギリギリにしたの」
『ふーん。敢えて?』
「敢えて」

 その単語をお互いに繰り返した後、電話越しに笑い声が重なった。

『じゃあそういう事にしておく』
「あ、信じてないね?」
『信じてる信じてる。つーか名前が公式のSNS見てるなんて知らなかった』
「普段あんまりSNS見ないんだけど、なんとなく衛輔くんの誕生日だしと思って」
『どんな理由だよ』
「更に白状するなら衛輔くんのSNSもチラっと見ちゃった」
『あんまりおもしろい事書いてないけどな』
「筋トレの話題がメインなのは衛輔くんらしくて面白かったよ」

 こんな風にとりとめもない話をしていると互いが海を越えた場所にいる事が不思議に感じる。衛輔くんは近くにいて、トラムに乗れば顔を見られるような気がするのにエカチェリングルクの、ひいてはロシアのどこを探したって衛輔くんはいない。

「と言うわけで、改めてお誕生日おめでとう、衛輔くん」
『おう。ありがと』
「あ、誕生日プレゼント! 欲しいのあったらリクエストしてね」
『欲しいのっていわれると難しいな』
「リクエストないならプロテインになっちゃうよ?」
『それ結構嬉しい。むしろ名前のおすすめあったら教えて』
「誕生日プレゼント選ぶより難題だよそれ!」
『ははは』

 おめでとうって言ったら切ろうと思ったのに、話したい事が頭の中で間欠泉みたいに湧き出てくる。会話の終わりを探しながら、同時に終わらせないための理由をどこかで探している気がする。

『早く会いたいな』

 とても穏やかな声色で紡がれた言葉。

「え?」
『会いたくねぇ? 顔見たいし、抱きしめたいし、キスしたい』

 頬を撫でる、さらりとした夏風みたい。そんな風に過ごす時間を想像してみるだけで心臓がきゅっとなって、感情がぐっと高まって、会いたいという思いが一層増加した。
 それは去年同じように思った「会いたい」と違う形で私の心に宿り、灯る。

「……会いたい」

 衛輔くんのいないエカチェリンブルクも楽しいけれど、衛輔くんがいてくれたらもっと楽しい。もっとキラキラする。そんな日常を知ってしまったから性懲りもなく思ってしまうのだ。単純に。明快に。ただただ会いたいと。

『俺が戻ったら今度はすぐに名前が帰国だから、出来るだけ会えるにしたいよな』
「うん。そうだね」
『名前の作ったシャルロートカも食いたいし』
「それは腕によりをかけて作って用意しておく」
『名前』

 改まるように衛輔くんが私の名前を呼ぶ。

「うん」
『これからもよろしくな』
「こちらこそ」

 何度も、歳を重ねてもずっと、毎年訪れるこの日を心待ちに思うだろう。夏の、涼やかな風と共に。

(22.9.8)