69


 それからしばらくすると、衛輔くんがロシアへ戻ってくる日がやってきた。同時に帰国の日が目前に迫る。とは言え、私の日常が特別変わる事はない。朝起きてトラムに乗って、お店でお菓子を作り、夜風と共に眠る。

「今日モリスケ戻ってくるんでしょう?」
「うん。仕事終わったら空港まで行くんだ」
「じゃあ間に合うように仕事終わらせないとね」
「最後だしやる事はちゃんとやってから行くよ。衛輔くんも来れなくなっても大丈夫だからって言ってくれてるし」

 だけど、今日がここで働く最後の日だった。終わりなんて来ないんじゃないかって思っていたのにその日はちゃんとやってきて、しかしそれはまるでこれからも続いていくような錯覚を私に与える。

「そうね。普段通りだから忘れてしまいそうになるけど、ナマエと一緒に働けるのも今日で最後なのよね。なんだか嘘みたい」
「レルーシュカ……」

 最後。改めて考えるとどうしても寂しさが増す。明後日の夜にみんながパーティーを開いてくれる予定だけど、この場所で甘い匂いを嗅ぐことも、窓から街を見渡すこともないのだと思うと心臓の奥の柔らかい場所が少し痛む。

「日本に戻ってもちゃんと遊びにきてね。それにバーブシカならナマエのこといつでも従業員として雇う準備は出来ているはずだからまた一緒に働きましょ」
「あはは。うん、そうだね。そうなったらまたよろしくね」

 同じ国籍ではないから、私もレルーシュカもそう簡単にいかない事はわかっていた。けれど今はそうやっていつかの話をするだけで良かった。それは来年かもしれないし10年後かもしれない。もしかすると私がバーブシカくらいの年齢になって実現するかもしれない。それでも良い。きっと私はまたこの場所へやってくる。たくさんの思い出と共に。その時、隣に衛輔くんがいてくれたらさらに幸せだ。

「その時は、ナマエとモリスケが家族になっていてくれたら嬉しいわ」
「えっ」

 レルーシュカの何気ない台詞に思わず大きな声が出てしまう。店内にいたお客さんの目が一瞬こちらへ向けられて、私は慌てて何事もなかったかのように取り繕う。そんな私を見て、レルーシュカが肩を小さく震わせた。

「ナスチャだってソーニャだって思ってるわよ。二人だったら絶対に素敵な家庭を築くだろうって」
「そ、それは……そうなったら確かに嬉しいけど……」

 結婚するという選択肢が自分の人生に現れるのは今でも不思議な感覚だ。衛輔くんと付き合ったばかりの頃は考えたこともなかったけれど、最近は少しだけ意識するようにもなった。
 衛輔くんと共にその選択肢を選ぶ未来はどれくらい先にあるのだろう。目の前なのか、それともずっと遠い場合なのか。もちろんそれが全てではないからお互いにとっての最善をこれからも模索していきたいと思うけれど。

「そうなった時はちゃんと教えてね。SNSで知るなんて嫌だから」
「レルーシュカもだよ。滅多に会えなくてもここの皆は私にとっての大事な人達だから、いつまでも大切にしたい」

 レルーシュカの瞳が優しく揺れる。店内の小さなBGMと、お客さんたちの話し声。ショーケースに並ぶ可憐なケーキ。ケッチンから漂う甘い香り。ここが私の好きな場所。私にとっての宝石箱。
 時計の針は進む。出勤最後の日はゆっくりと、しかし確かに終わりへと近づいていた。


*   *   *


 衛輔くんと行ったサンクトペテルブルク旅行以来のコブツォヴォ国際空港。それなりの大きさではあるけれど迷ってしまうほどの広さはない。衛輔くんの乗った飛行機の到着情報が電光掲示板に表示され、到着ロビーでその姿が現れるのを待った。

『もう到着ロビーいる?』
『うん』
『悪い、荷物ピックアップしたらすぐ行くから』
『焦らないでいいよ』

 だけどその連絡通り、それから数分もしないうちに衛輔くんの姿が見えた。およそ4ヶ月ぶりの再会。久しぶりの衛輔くんはやっぱりかっこよくて私は思わず視線をそらしてしまう。

「なんで顔そらすんだよ」
「や、なんか、眩しくて直視出来ない……」

 口籠りながら言うと、衛輔くんは小さく笑った。もっと違う言い方をすればよかったと後悔する私の顔を衛輔くんが覗く。距離が近い。久しぶりでこれはちょっと、心臓に良くない。ああ、でも得意気に上がった口角が衛輔くんらしくってやっぱり好きだ。

「ただいま、名前」
「……おかえり、衛輔くん」

 あと少しだけ。本当に少しだけだけど、衛輔くんのいるエカチェリンブルクで私は日常を重ねる。

(22.9.26)