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秋の訪れを仄かに感じさせる夜、お酒の酔いと昂ぶった感情を落ち着かせてくれたのは肌寒くも心地良い風だった。イセチ川沿いを歩いていると聞こえてくる水の音が鼓膜を小さく揺らす。
私の為に開いてくれたパーティーからの帰り道は星の綺麗な空が広がっていて、隣に衛輔くんがいなかったら私は一人で涙を流していたかもしれないなと思った。あれだけ泣いたというのに懲りもせず涙腺が緩むのは自分でもちょっと情けないくらいだけど。
「落ち着いたか?」
とても優しい瞳で顔を覗かれ私はそっと視線を外す。涙の跡がまだ残っている顔をまじまじと見つめられるのはどこか恥ずかしかったから。
「……泣くだろうなと思ってたけど、想定して以上に泣いちゃった。多分明日は目がパンパンに腫れるんだろうなぁ。空港のお見送りの時は泣かないようにしたいけど、皆の顔見たらまた泣いちゃいそう」
衛輔くんを困らせたくないから困ったように笑って言う。いや、パーティーが終わり、部屋の前まで送ると言ってくれた衛輔くんに対してこのまま真っ直ぐ部屋に戻りたくないとこぼした時点で困らせてしまっているか。
だけどこんな夜を一人で越えられるほど、私はまだ強くない。
「別に泣くのは悪いことじゃないだろ」
衛輔くんは私の手を引いて近くにあったガゼボに誘導する。椅子に座り私達の足音が消えると、川の音が少し大きくなったような錯覚に陥った。揺れる月の光。街灯の明かりと建物の明かりが通行人の影を作る。
「いつの間にこの景色が私にとっての当たり前になってたんだろう」
ロシア語で会話すること。お菓子に囲まれること。衛輔くんと一緒にいること。凍てつくような寒い冬を越えた先の芽吹く季節はとても暖かいこと。だけど、冬は冬で楽しいってことも。私にたくさんの事を教えてくれたエカチェリンブルクの街。この街を離れる事に対しての寂しさは拭えない。
「この街から離れる事もまた衛輔くんと簡単には会えなくなる事も、どうしたって寂しいなって思っちゃうけど、これからも私らしく過ごしていきたいな」
隣に座る衛輔くんの肩に頭を預ける。そっと腕が伸びてきて、私の目尻に触れた。涙の跡を辿るように動く指先がくすぐったい。
「跡まだ残ってる? 化粧もほとんど落ちちゃったよね」
「名前」
「うん?」
「結婚しようぜ」
その意味を理解すると同時に勢いよく頭を上げて衛輔くんを見つめた。つい先日レルーシュカとそんな事を話していたのに、急だと思ってしまう。なにか言葉を発したくとも、突然過ぎて何をどう紡いで良いのかわからない。
ただ瞬きを繰り返して衛輔くんの顔を見つめる。ガゼボに差し込む光は少なくて、それでも薄く差し込んだ月光は衛輔くんの優しい表情を照らしていた。
「名前が帰国する前に言おうってずっと思っててさ」
「そう……なの?」
「シチュエーションとかかっこいい台詞とかすげぇ考えてたんだけどなー。オシャレなレストランでスーツ着てでっかいバラの花束持ってとか。でも、名前と話してたら今言いたくなった」
今度は衛輔くんが困ったように笑って言う。それはなぜか泣きたくなるような笑みで、私の心臓が目に見えない何かで鷲掴みにされた気分だった。
「名前が辛い時も悲しい時も俺が名前のこと全力で守るから、名前は俺のそばで幸せになって。そしたら俺も幸せだって思える」
これから先、私はどこにいて何をするんだろう。だけど衛輔くんと一緒にいる未来は笑っちゃうくらい簡単に思い描ける。
薬指の指輪。お揃いの名字。寝起きの掠れた声。お風呂上がりのセットしていない髪の毛。無防備な横顔。なんて優しくて幸せで耽美な日々なんだろう。
「名前、泣いてる?」
「泣いて、ない……」
「泣いてるだろ」
「泣いてないし」
「ハイハイ泣いてない泣いてない」
「だって今日だけでいろいろありすぎて感情の整理がつかないよ。……け、結婚しようって言われるなんて思ってなかったし」
再び私の目尻に触れた指先は熱い。
「俺だって好き好んで遠距離恋愛したくないしな」
「それは、私だってそうだよ」
「それに名前のいないこれから先の未来はもう想像出来ねえし」
それも、同じ。
「だから結婚しようぜ」
衛輔くんが得意気に笑う。私の大好きな笑顔。
私をお姫様にしてくれる魔法のコートはもうどこにもない。だけど魔法みたいに輝く日常がここにある。
「喜んで」
熱を帯びた唇が触れる。
エカチェリンブルクの静かな夜。
川の音。
月の光。
これまでの自分を抱きしめ、これからの自分に胸を張りながらまた一歩踏み出そう。あの時のように。
(22.09.28)