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 夏の終わりと秋の始まりが混ざる澄んだ空には真っ白な雲が浮かんでいた。あの雲を突き抜けた先にある真っ青な世界が私の旅路。空港内の窓からは飛行機の機体が見える。綺麗に並んだあの中のどれかに乗って私は日本へと向かうのだ。

「ナマエ、忘れ物はない? アンリョカのチョコレートもちゃんと持った?」
「あはは。うん。ちゃんとお土産もしっかり詰め込んだから大丈夫」
「それとこれ。バーブシカから」
「手紙?」
「うん。今日、お見送りに来れないこと残念がってたよ」

 見上げた先にあるソーニャの端正な顔立ち。その隣にはレルーシュカとナスチャがいて、少し離れたところでは衛輔くんとキーラが話しをしている。わざわざお店を臨時休業してまでこうしてお見送りに来てくれたことが私の涙腺を一層刺激してくる。
 渡されたバーブシカの手紙に目を通してしまったら絶対に涙が溢れ出るとわかっていたから大切にしまって後で機内で読もうと決めた。
 
「いくら直行便がないとはいえ、モスクワで乗り換えるほうが安いなんて面白い話よね。晴れてて良かったけれど日本までは長い旅になると思うし、体調には気を付けてね」
「ありがと、レルーシュカ。レルーシュカもこれからどんどん寒くなるし風邪引かないでね」
「ナマエ、着いたらニホンの写真送ってよ。今度は僕が遊びに行くからさ」
「もちろん。ナスチャと日本で会えるの楽しみにしてる」

 泣くまいと決めていたのに、こんな風に会話をすると思わず泣いてしまいそうになる。だけど握り拳を作ってぐっと堪えた。これは決して永遠の別れではないのだから、悲観する必要はどこにもないと自分に言い聞かせる。

「険しい顔になってんぞ」
「衛輔くん……。でも険しい顔でもしてないと泣きそうで」
「泣いてもいいから笑っておけよ」
「泣いたら今度は絶対不細工な顔になる……」

 頬に手のひらを添えて、少し強引に口角を上げられた。重力に逆らうように動く肌。じんわりと伝わってくる体温。

「ふたりがそうやって仲睦まじくしている様子もしばらくは見納めね」

 ソーニャの言葉を聞き、私と衛輔くんは互いに顔を見合わせた。
 確かに私と衛輔くんはまたしばらくの間、離れ離れになる。次にいつ会えるのかも定かではない。だけど私達には秘密があった。まだ皆には伝えていない事。今日、飛行機に乗ってしまう前に私と衛輔くんの口から直接言いたいと思っていた事。
 搭乗手続き開始まではまだ僅かに時間があるし、言うなら今しかないよねと思いを込めて衛輔くんを見つめる。意図が伝わったのか衛輔くんは私の隣に立ちなおして肩を抱いた。

「あー……こんな時にあれなんだけど、皆に伝えておきたいことがあるから聞いてほしい」

 その言葉と共に皆の視線が一気に集まる。言わないなんて選択肢はなかったし知ってほしいとも思っていたけれど、いざ報告をするとなると緊張で体が硬くなってしまう。肩に添えられた衛輔くんの手のひらにも少しだけ力が入った気がした。
 でもそんな緊張の中に芽生えるものは、希望や喜びや幸福といった美しい感情。結婚しようと言われた夜が脳裏に浮かぶ。胸いっぱいに溢れる優しさ。きっと偶然も必然も全部丸めて今の私がある。

「俺たち結婚することにしたから」

 隣から意思のある通った声。真っ先に反応を示したのはソーニャだった。

「本当に!?」
「うん。まだ全然詳しい事は決まってないんだけど……」
「いつ? いつプロポーズされたの? なんて言われたの?」
「えっと、3日前くらいに。でも恥ずかしいから詳細は秘密で……」

 私に詰め寄るソーニャの輝かんばかりの瞳。限界まで口角を上げたソーニャが強く私を抱きしめる。

「嬉しい! おめでとう、ナマエ!」

 私達の幸せを心から喜んでくれる人がいる事実はこんなにも温かい。言葉では伝えきれない思いを手のひらに込めて、ソーニャのハグに応えた。

「ナマエ」
「レルーシュカ」 
「私もすごく嬉しい。結婚したあとふたりは一緒に暮らす予定なの?」
「そうしたいなって思ってる」
「なら、モリスケにはずっとロシアリーグでプレーしてもらわなくちゃね」

 具体的なことはまだ何一つ決まっていなくても、訪れる未来はきっと明るいだろう。大好きな場所も、懐かしい場所も、知らない場所も衛輔くんがいるなら一層素敵な場所になる。
 この広い世界で小さな日本という国を飛び出してやってきた場所の名前はエカチェリンブルク。ロシアでは比較的ヨーロッパ寄りに位置し、人口約150万人が住む都市。ここで過ごした時間が私のこれからを作り上げたと言っても過言ではない。

「だからきっとそう遠くはないうちにまたエカチェリンブルクに来るよ」
「待ってるわ。ここで」
「うん。その日までまたね、みんな」
「Пока、名前」

 エカチェリンブルクでの日常に、ゆっくりと幕が降りた。

(22.9.28)
※Пока(パカー)……またね。主に親しい人に対して使う。