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桜の蕾を写真に収める。日本に帰国してから7ヶ月ほど経ったけれど、今でもこうして心躍る景色に出会った時はナスチャへ写真を送っていた。
遠く離れた場所にいる友人たちは何をしているのだろうか。ソーニャは学校に行って、ナスチャは課題に追われて、レルーシュカは接客をしているのかもしれない。だけどきっと今日もお店は優しい雰囲気に包まれているはずだ。
『桜、そろそろ咲く季節だもんな』
届いた返事に目を丸くする。撮ったばかりの写真をナスチャに送信したつもりだったけれど間違えて衛輔くんに送っていたらしい。
ごめんね、送信先を間違ったと謝罪の言葉を打つ手を止める。考えてもみれば謝る必要はどこにもない。むしろ衛輔くんにも見てもらえるならそのほうが良いと白状するだけに留めた。
『衛輔くんが来る頃にはちょうど満開かも。実はナスチャにこの写真送るつもりだったんだけど、間違えて衛輔くんに送っちゃった』
『てっきり俺の為に撮ってくれたと思ったのにナスチャかよ!』
『衛輔くんにも後で送ろうと思ってたよ』
『後で?』
『後で……です』
衛輔くんの表情を想像すると笑ってしまいそうになる。道端でニヤニヤしているやばい人と思われたくはないから奥歯を噛み締めて強く唇を結んだ。
見上げる桜の蕾の可憐なこと。淡い色がぎゅっと詰まって、開花を今か今かと待ちわびているようだ。だけどきっとあっという間に満開の時期は終わり、花びら達は散ってゆくのだろう。
訪れる新しい季節の為に。
『もう少しで会えるんだね』
秋を越え、冬を越え、そして訪れた春。エカチェリンブルクとは異なる四季の移ろい。季節が変わる度、思い出すのはエカチェリンブルクで過ごした日々の事。シャルロートカの香り、凍てつく冬の寒さ、クリスマスマーケットのスケートリンク、春を彩るライラックやナナカマド。
時々そんなエカチェリンブルクの風景写真と共に衛輔くんからのメッセージが届いて、私は懐かしさに浸って、そしてやっぱり会いたいなぁと思う。
もちろん、帰国して久しぶりに友達に会えたのは嬉しかった。いつでも好きな時に美味しい日本食を食べられる事も。溢れる日本語には安心できるし、実家の気楽さといったらない。物価は少し高く感じたけれどその分給料だって良い。日本も好き。日本にしかない良さもあるって理解している。
『真っ先に名前に会いに行く』
『うん』
でも私は衛輔くんと一緒にいる時の自分が一番好き。
『両家に挨拶、区役所行って婚姻届の提出……名前はビザの発行もしないといけないか。忙しくなるな』
『そうだね。でも衛輔くんはオリンピックに集中してね。私だけでやれる事はやるから任せてよ』
だから衛輔くんの隣で笑って泣いて困って怒って喜んでたくさん幸せを謳歌したい。そこが日本でもロシアでも知らない国でも良い。だけどエカチェリンブルクだったら更に良いなって、そんな風に思うのだ。
そしてその日はやってきた。
都内のソメイヨシノが満開を迎えた3月下旬、成田空港の到着ロビーは多くの人で賑わっている。
「名前」
人混みの中、私を呼ぶ声。視線はただそこにだけ注がれる。シワのないスーツをまとい、4輪のキャリーケースを転がしながらかけていたサングラスを外した衛輔くんが私の前に立つ。
「衛輔くん」
「髪型変えたんだな。似合ってる、可愛い」
「衛輔くんもスーツ姿かっこいい」
「だろ?」
届く肉声は優しく、見上げる表情は柔らかい。
「迎えに来てくれてありがとな。つーかこの後ゆっくりできなくて悪い」
「ううん。私も渋谷で用事あったから」
この後、高校時代の部活仲間たちの集まりに参加する衛輔くんとは少しの時間しか一緒にいられない。
日本にいるといっても国内合宿もあるし、ネーションズリーグの為に再び海外へと移動する予定だから実際ゆっくり出来る時間なんて本当に僅かばかりしかないけれど、久しぶりの逢瀬は私の背筋をぐっと伸ばしてくれた。
「後輩がモデルとユーチューバーと……お笑い芸人だっけ? バラエティに富んでて凄いね。私も帰りに渋谷のポスター見てみるよ。集まり、楽しんできて」
「おう」
肩を並べて歩き出す。うん、この感じ。やっぱり衛輔くんの隣は落ち着く。
そっと指先を伸ばすと何も言わず握られる手。日本で会うのは初めてだからちょっとだけ変な感じだな。だけど一緒に暮らす未来の為、私と衛輔くんの忙しい日々が始まるのは楽しみで仕方なかった。
(22.9.29)