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 ネーションズリーグで再び日本を離れる前にと、衛輔くんが私の実家にやってきたのは忙しい合間を縫った日の事だった。エカチェリンブルクにいた時から衛輔くんのことはやんわりと伝えていたし、両親への挨拶は滞りなく終わった。なんとも言えない気恥ずかしさを感じながらも、せっかく来てくれたのだからと私の部屋へ案内したのはつい先程。
 別に見られて困るものはないはずなのに一人暮らしの部屋を案内するよりも緊張するのはどうしてだろう。小さい頃の写真とか学生の頃に使っていたものとか自分でも忘れているような思い出がたくさん詰まっているからだろうか。お互い日本にいること以上に衛輔くんが私の実家にいることが不思議に思う。

「そんな見ても面白いものないよ?」
「名前はここで育ったんだなって思うとそれだけで結構面白いけど」

 帰国してから実家暮らしをしている今、この部屋の中には私の生活の様子が至る所に散らばっている。出したままの筆記用具や、絡まったままのコンセント。衛輔くんが部屋に入るならもっと綺麗にしていたと今更ながら後悔した。

「一時的な実家暮らしだと思って出ていった時の状態のまま使ってるんだよね。いらないものは捨てたけど、テーブルとか棚とかわざわざ新しく買う必要はないなって」
「全然問題ないだろ。俺の部屋なんて物置同然だし」

 だけどその物置同然の衛輔くんの部屋には、私の知らない衛輔くんの思い出がたくさん詰まっているんだろう。そして私はそれを愛おしく感じるんだと思う。

「つーか名前の両親、良い人そうでよかった」
「今日衛輔くんが来る事すごく楽しみにしてたからね。お父さんなんて昨日ちょっといいお酒買って帰って来てたし」
「異国で一人娘をたぶらかしてんだって怒鳴られるくらいの覚悟はしてたから安心した」
「あはは。国の代表に選ばれるくらい素敵でカッコいい人連れてきて怒鳴るなんてありえないよ」
「国の代表っても堅実な公務員とか大手の会社勤務と比べたら不安定な職業だろ。だからって名前のこと諦める理由にはなんねーし名前に大変な思いさせるつもりも一切ないけどな」

 力強い声はどこまでも私に安心感と希望をもたらす。

「まあでも結婚認めてもらえたの単純に嬉しいし、改めて名前のこと大切にしようって思った」

 いいんだよ、大変でも。衛輔くんとなら。幸せが溢れている人生が良いとは思うけど、衛輔くんがいるなら大変な事も乗り越えられる気がするから。これから続く長い長い人生の中で、想像すら出来ないような事も起こるかもしれない。それでも私、衛輔くんが衛輔くんである限りずっと大好きだって思うよ。
 だから私も心から思える。

「大丈夫。私結構頑丈だし、衛輔くんに何があったら私も衛輔くんのこと守るから」

 出来るだけ気持ちを込め、私も衛輔くんに安心感と希望を与えられるようにと願いながら言う。

「名前が俺のこと守ってくれんの?」
「うん」
「頼もしいな」
「でしょ」

 優しい表情で距離を詰められたかと思うと両手で包み込まれる私の頬。手のひらの体温が移ってきて一気に頬は暑くなる。触れ合う額。衛輔くんの短い髪の毛が触れてくすぐったい。そうしてそのまま狭い部屋の中で誰に見られるでもないのに、この世に存在する全てから隠れるような小さなキスをされた。
 互いの呼吸が混ざり合うくらいの至近距離で笑いながら衛輔くんが言う。

「なんつーか……俺からキスしたけど下に名前の両親がいるって思うとすげぇ悪い事してる気分になるな」
「あはは。ちょっとわかる。でも衛輔くんとキスするの好きだよ、私」
「そういう事言われるとまたしたくなるだろ」

 そっと背中に回った腕に力がこもるのを感じる。聞こえる心臓の音。衛輔くんの言うように、もっと触れ合いたいと思ってもここでは難しい事のほうが多い。だけどネーションズリーグに向けて来週には日本を発つのかと思うと、今のうちに満たしておきたいと願ってしまった。

「衛輔くん」
「ん?」
「もう一回キスしよう」

 私がこんな風に言うのは珍しいからだろうか、衛輔くんが目を見張る。少し困ったように笑った衛輔くんは私の頬に手のひらを添えて触れるだけのキスをした。いつもどおりの優しい、だけど少しだけ背徳感の混ざる心地よいキスだった。

(22.9.30)