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「ではこちらの内容で受理しましたので」

 婚姻届は想像よりもあっさりと受理されてほんの少しだけ肩透かしをくらった気分だった。
 ネーションズリーグが終わり、梅雨が明け、太陽が容赦なく照りつける季節。日本に戻ってきた衛輔くんと共に向かった区役所は人で溢れていた。

「結構あっさりだったね」
「全然実感わかねぇよな」
「ね」
「このまま免許証の手続きとかする?」
「そうだね、それだけは先にしておこうかな。その他の手続きは今度の休みに一人でやるよ。せっかくだし今日はあんまり面倒なことは考えない!」
「手伝えそうなことあったら言えよ」
「ありがと」

 親への挨拶、両家の顔合わせ、結婚指輪の購入等、婚姻届を出すまでにやる事は色々あった。けれど私も衛輔くんもいい大人だし、特に周囲からの反対もなくすんなりと今日に至った気がする。だからなのか、それとも一緒に暮らすのはエカチェリンブルクに渡ってからなのか、これで晴れて夫婦となったのにその実感は驚くほどない。

「あっそうだ。指輪の刻印終わったからいつでも取りに来てくださいって連絡きてたからそれも行きたい」
「じゃあ免許証の変更終わったら行こうぜ。指輪あるほうが結婚したって感じするしな」
「婚約指輪買うタイミング、結局なかったもんね」

 夜久。夜久名前。だけど、まだ馴染みのない名前を心の中で繰り返しては得も言われぬ感情が私を満たす。
 既婚の友達からは名前変えたら色々大変だよなんて言われた事を思い出しつつも、この筆舌に尽くしがたい感覚は名前を変えた側の特権なんじゃないかなとも思った。

「そういや近いうちにSNSで結婚したこと報告しようと思ってるけど平気? 嫌じゃねぇ? 名前の顔とかは絶対出さないし迷惑かからないようにするけど」

 足を止めた衛輔くんが思い出したかのように言う。そっか、衛輔くんはそういう報告も必要になってくるのか。

「うん、大丈夫だよ」
「よかった。いつも応援してくれる人たちに対して前向きな報告出来るのは嬉しいからさ」

 スポーツ選手がSNSで結婚や出産の報告をしているのはよく見るし、人によってはニュースでも取り上げられるけれど自分が当事者側になるのはやはりどこか不思議だった。
 しかし、同時に気が引き締まる。

「結婚が衛輔くんのアスリート人生にとってマイナスにはなってほしくないし、これからも衛輔くんがバレーに集中出来るように家族として、一番近くにいる存在として、衛輔くんを支えられるように頑張るから」
「気持ちは嬉しいけどあんまり気負いすぎんなよ。それで名前がしたいこと出来なかったり嫌な思いすんのは俺も嫌だし。名前らしくいてくれたらそれだけで満足」
「じゃあ……私らしく衛輔くんを支える?」
「おう。その方向で頼む」

 衛輔くんは口角を上げて私の手を握った。絶え間なく蝉の声が聞こえる夏、手のひらの体温は夏の暑さに滲む。そんな中聞こえてきたのは衛輔くんのスマホの着信音。

「衛輔くんのスマホ鳴ってるよね? 電話なら私に気使わないで出て大丈夫だよ」

 スマホ画面を確認した衛輔くんは「悪い。要件聞いたらさっさと切るから」と一言私に謝り、繋いだ手をそのままに会話を始めた。移動した先の木陰で、木漏れ日が降り注ぐ。

「もしもしリエーフ? 何だよ今忙し……今日? いや無理。無理なもんは無理だって。黒尾が? あー……じゃあ来週ならなんとかなるかもって言っといて。……は? ぜってーやだ。……つーか声でけぇよ。すげぇ可愛いに決まってんだろ。……ハァ……わかった。聞いてみるから待ってろ」

 渋々といった様子で会話を止めた衛輔くんが私の名前を呼ぶ。聞こえてくる声から、何かを聞かれるんだろうなと察しながらも衛輔くんの言葉を待った。

「来週木曜日の夜って空いてる? 高校の時の部活のメンバーが集まるらしいんだけどせっかくなら名前も来てくれないかってさ。嫌なら正直に言ってくれていいけど」

 集まりの、誘い。
 YouTuber、お笑い芸人、モデル……とバラエティ豊かな衛輔くんの後輩の人たちへ思いを馳せると、嫌というよりも緊張が勝ってしまいそうだと思った。衛輔くんは急かすことなく私の返答を待つ。
 オリンピックが終わり、エカチェリンブルクへ行ってしまえば衛輔くんの親しい人と顔を合わせることは容易ではなくなるだろう。そう考えるとずっと話に聞いていた衛輔くんの元チームメイトと会ってみたい気もする。悩んだ結果、私は頭を上下に動かした。

「ちょっと緊張するけど、せっかくだし行かせてもらおうかな」

 言うと、やりとりが聞こえていたのか、繋いだままの電話の向こうから「やったー!」と無邪気な声が小さく聞こえる。
 私と衛輔くんは顔を見合わせて肩を揺らすだけだった。

(22.10.03)