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「夜久さんの! 奥さん!」

 その第一声に思わず後退ってしまう。
 翌週木曜日。都内某所にある一軒家は、かの有名なYouTuberの自宅らしい。衛輔くんの後に続いてお邪魔すると私達を出迎えてくれたのは家主であり有名YouTuberことコヅケンさん……ではなく、モデルの灰羽リエーフさんだった。

「リエーフうるせぇ。名前が驚いてんだろ」
「わー! すんません! でも会えてめちゃくちゃ嬉しいです! 灰羽リエーフです! モデルしてます!」

 見た目からは想像できない人懐っこさがまるで犬みたいだと思った。ロシア人とのハーフだと聞いていたけれど、確かにロシア人ぽい雰囲気があちらこちらに見える。話しやすそうな人で良かったと内心安堵しながら私も口を開いた。

「はじめまして、こんにちは。えっと……夜久名前です。しゅ、主人がいつもお世話になってます……?」
「なんで疑問系なんだよ。リエーフには全然お世話になってねぇし。まあ面白いからいいけど」
「この常套句言うの恥ずかしいなって思ったのに面白いなの!?」

 そっと頭の上に置かれた手のひらが何度か優しく弾んで離れていく。

「玄関で立ち話もなんだしさっさと中入ろうぜ」

 そう言った衛輔くんに置いていかれないようにと私も後ろを続くと、私の横に並んだ灰羽さんの声が小さく届いた。

「夜久さんってあんな顔するんですね……」
「え?」
「高校の時は怒られてばっかだったんで好きな人の前だと夜久さんもフツーの人間なんだなって」

 普通の人間。言い方に思わず笑ってしまいそうになった。
 そっか。灰羽さんから見える衛輔くんはそんな感じなんだ。でも「怒る衛輔くん」は逆に私じゃ引き出せない、後輩や昔からの友達だからこそ見せる一面だ。

「私はむしろ怒ってばっかりの衛輔くんが想像できないのでちょっと気になります」
「夜久さん怒ったらめっちゃ乱暴なんで知らないままのほうがいいです!」
「あはは」
「リエーフ、会話聞こえてるからな?」
「夜久さん怒った! 俺にも半分でいいんで優しくしてください!」
「俺はいつも優しいだろ」

 先輩後輩として良い関係を築いてきたんだろうなぁとふたりの高校時代を想像してみる。制服の衛輔くん、見てみたかったと密かな願望が芽生えた時、すぐ近くの引き戸が開いて一人の男性が顔を覗かせた。

「リエーフと夜久の声、居間まで届いてんぞ」
「この間ぶりだな、黒尾」
「その節はドーモ」

 そのまま黒い瞳が私をとらえる。灰羽さんと比べると落ち着いた雰囲気が漂っているなと思いながら軽く会釈をした。
 あの向こうに、衛輔くんの友人たちがいる。不意に訪れる緊張。そんな私の気持ちを読み取ったのか、衛輔くんがそっと私の顔を覗き込む。

「最初は緊張するだろうけど隣に俺いるし、変に絡むやつもいないからあんまり気負うなよ」

 頷いて衛輔くんと肩を並べて足を踏みれると同時、軽快な破裂音が届いた。一瞬何が起こったのかわからなかったけれど、飛んできた紙テープでクラッカーが鳴ったのだと理解する。

「夜久さん結婚おめでとうございます! ネーションズリーグおつかれっした! オリンピックも頑張ってください!」
「ちょっとトラ、それだと話題多すぎるからまずは結婚祝うって決めたじゃん。あと声大きすぎ」
「まじか!? 聞いてなかった……! すんません夜久さん! 改めて結婚おめでとうございます!!」

 呆気にとられたまま瞬きを繰り返す。だってこんなにハイテンションで出迎えてもらえるなんて思ってもなかった。
 だけどそんな私とは対照的に、衛輔くんは驚いた様子を見せることはない。

「おう、山本。ありがとな。研磨も毎度場所の提供サンキュ」
「ササッ! どうぞ座ってください! 奥様も!」
「えっ、あ、はい! ありがとうございます!」

 いつもこんな感じなのかな。昔からこんな風に仲を深めてきたのかな。衛輔くんの楽しそうで幸せそうな表情が私の心をくすぐる。

「だから言ったろ? 気負うなって」

 私の知らない衛輔くんを知っている人たち。衛輔くんと出会わなかったら知り合うことのなかった人たち。そうだ。エカチェリンブルクに行ったばかりの頃もこうやって人の輪が広がっていったんだった。その結果、私も衛輔くんと出会えたんだ。

「そうだね。緊張するとか杞憂だったかも」

 空間の中に自分が馴染んでゆく感覚が広がった。


*   *   *


 それからおよそ1時間半。大量に並べられた料理もほとんどなくなり、テーブルにはお酒の空き缶が目立つようになってきた。
 私もどこか宙を浮くような心地良さを感じながら手に持っていたお酒の最後のひと口を飲むと、隣に座わる黒尾さんが声をかけてきた。

「名前さんはオリンピック、観に行くんです?」
「予選のチケットが手に入ったので1日だけですけど行く予定です。黒尾さんは確かバレーボール協会の広報なんですよね?」
「あ、夜久から聞いてます? 今後も旦那さんにはいろいろとお世話になると思うんですけどどうぞよろしくお願いしますね」
「名前、さっきの常套句言うなら今だぞ。うちの主人をよろしくお願いしますって」

 反対隣から衛輔くんのからかう声が届く。衛輔くんはお酒を飲んでいないのに普段よりも解放的な様子だ。

「衛輔くんてば面白がってるでしょ」
「バレたか」
「あれは恥ずかしいから慣れるまでは1日1回の制限をかけることにした」
「制限?」
「そう、制限。だから普通にこちらこそ……ん、普通に……? と、とにかく黒尾さん。こちらこそどうぞよろしくお願いします」

 慌てて頭を下げると、戻した先にある黒尾さんの瞳。それは穏やかで優しく、だけど切なさのようなものが秘められている気がした。

「黒尾さん?」
「あー……いや、やっぱり昔っから知ってる奴が結婚すんのって感慨深くて。高校の時は勉強とバレーと、まあだいたいそんくらいで毎日が回ってたのに、夜っ久んに守るべき家族が出来たんだなって思ったらなんかこう、親心と言いますか、なんと言いますか、しみじみと、ね」
「黒尾に産んでもらった覚えはねーぞ。つーか俺が結婚してそう思うんだったら研磨が結婚した日には大号泣だな」

 その声はテーブルを挟んで黒尾さんの前に座る孤爪さんにも届いたらしい。

「うわ、すごい想像出来た……」
「おいおいおい、うわって研磨。俺をなんだと思ってんの」
「なんとも思ってないよ。普通に想像できるなって思っただけ。て言うか俺の結婚はどうでもいいじゃん。今日の主役は夜久くんと奥さんなんだし」
「んじゃあ研磨からふたりに何かねぇの?」
「何かって?」
「祝いの言葉とかさ」
「そういうの得意じゃないんだけど……。まあ……夜久くんはバレーばっかりじゃなくて家族のこともちゃんと大切にしてくれると思うから、これから先幸せな家庭を築いていってよ……とか?」

 孤爪さんの言葉が騒がしい部屋の中で鼓膜を緩やかに撫でる。
 衛輔くんを見るとその瞳に映る私の顔。衛輔くんはいつも私の事を大切にしてくれる。これまでもそうだったし、これからも変わらないだろう。想像出来る。だから私も大切にしたい。衛輔くんを。衛輔くんの家族、友人、仲間、信念。過去と、そしてこれから先に広がる未来も。

「ありがとうございます」

 お礼を言った私に薄く笑ってくれる孤爪さんと、そんな孤爪さんを見てなにやら感慨深い表情をしている黒尾さんと衛輔くん。
 今日、ここへ来られて良かった。衛輔くんが大切にしている空間に身を置けて良かった。友人に囲まれている時の衛輔くんの感じとか、ロシアにいる時とはまたちょっと違う雰囲気とか。そういうものを全部知ることが出来て良かった。
 優しく心地良い喧騒の中で私はそんな事をぼんやりと思うのだった。

(22.10.10)