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 部屋の片付けを行いながらテレビ画面へ視線を向けた。時刻は夜8時30分。渡航日までにやる事はたくさんあるというのに有名スポーツバラエティーに出演している衛輔くんを見るとつい作業する手が止まってしまう。
 この夏の話題を全て搔っ攫っていた東京オリンピックが無事に閉会したのはつい先日の事。今もなおオリンピアンは話題の中心にいて、メダリストともなるとテレビで見ない日はない程だ。男子バレーボールもまた数年ぶりの快挙に世間を賑わせた競技の一つであり、最近はバラエティー番組に選手が出演している様子もよく見る。

『なにしてた?』

 衛輔くんから連絡が届いたのはちょうどCMに切り替わったタイミングだった。中途半端に散らかった部屋を見渡しながら現状を伝える。

『荷物整理しながら衛輔くんの出演してるテレビ観てた』
『ああ、この間のやつか』
『衛輔くん観てないの? 面白いよ』
『喋ってるの宮と木兎ばっかりだろ』
『そうだけどちゃんと話聞いて相槌打ってる衛輔くん、衛輔くんって感じするよ』
『どんな感じだよ』
『ちゃんと周りに気配りしてるところとか』

 CMがあけたテレビから聞こえてくる衛輔くんの声。テレビの中の衛輔くんと、文字の先にいる衛輔くん。まるで世界に衛輔くんが2人存在しているみたいでちょっと贅沢だ。

『テレビに衛輔くん映ってるのにこうして連絡取り合ってるの面白いね』
『そうか?』
『そうだよ』
『なあ、テレビ終わってからでいいけど外出られねぇ?』
『平気だけどなんかあった?』
『いや、予定も用事もないから名前に会いたい』

 会いたいという言葉を目に入れて、私の気持ちは一気に傾く。だってもう1か月近くは衛輔くんに会えていない。孤爪さんの家に集まった日を最後に衛輔くんの生活は一気に忙しくなってしまい、結局今日までまともに会うことが出来なかったのだ。
 もしかするとこのまま渡航の日を迎えてしまうのかなと思っていたところだったから、衛輔くんの誘いを受けて心は浮足立った。

『私も会いたい。嬉しい』
『じゃあ30分後に名前の家の近くのコンビニに行くわ』

 急遽交わされた約束。こういうのは恋人同士の待ち合わせみたいでちょっと楽しい。
 クローゼットを開いて衛輔くんと会うための服に手を伸ばすと不意に感情が込み上がった。今度はこの部屋を空っぽにして出ていくのか、と。大切なものを少しだけ持って。そしてきっとまた新しい何かが始まるのだろう。あの時そうしたみたいに。

 それから30分後に飛び出した夏の夜。まだ暑さを残す空気の中に衛輔くんが立っている。駐車場に止まった車から聞こえるエンジン音。コンビニから漏れる光。ああ、衛輔くんだ。さっきまでテレビで見ていたはずなのに、オリンピックだってずっと応援していたのに、生身の衛輔くんが瞳に映ると心臓がぎゅっと優しく痛む。

「衛輔くん!」
「名前」
「ごめんね、待たせちゃった?」
「全然。それより悪かったな、夜に」
「もしかしたら出発の日まで会えないんじゃないかって思ってたから嬉しい」
「いやさすがにそれは俺が耐えられない」

 衛輔くんが困ったように笑う。そっと優しく握られる手。歩き出した衛輔くんに引かれるように私も足を前へ出した。アスファルトを踏みしめながら混ざり合う体温を感じる。

「全然時間作れなくてごめんな。一応新婚なのに」
「衛輔くんが謝ることじゃないよ。新婚だからって一緒にずっと一緒に過ごさなくちゃいけない決まりはないし、オリンピックで衛輔くんの活躍見れたから私は結構満足してる」
「けどビザの関係で結婚記念日も何でもない日になっただろ。エカチェリンブルクに戻ったら名前のしてほしい事なんでもしてやるからしてほしい事考えといて」

 慈しみの籠った声。大切にされていることを強く実感できる。だからきっと私は衛輔くんと会えなくても寂しいと思わないのだろう。離れていても私の事を想ってくれていると五感で感じ取れるから。

「なんでもって言われると難しいね。エカチェリンブルクで一緒に暮らせるの楽しみだからそれだけで十分って言うか……あ、でもお揃いのマグカップは欲しいし、お箸とお茶碗はこっちで買って持って行かないとだね?」

 手は繋がれたまま衛輔くんの指先だけが動いた。ゆっくりと手の形を確かめるような動きはどこか扇情的で私は思わず衛輔くんを見上げる。

「衛輔くん?」
「いや、好きだなって改めて思ってさ。楽しみだな、一緒に暮らすの」
「そうだね。わくわくする」

 それは少し先、同じ空間で一緒に生活を営む未来。おはようとおやすみを言い合って、互いに無防備なところを晒し合って、くだらないことを真剣に考えたりする未来。
 そんな未来がすぐ目の前で微笑んでいる。


*   *   *


 飛行機が離陸する。どんどん地上の景色が小さくなっていって雲を抜けた先にあるのは果てしない青の世界。水面のように揺らぐ白い雲。更に上では宇宙の存在を感じさせる深い藍色が広がっていた。
 数年前に一人で目指したロシアへ、今度は衛輔くんと共に向かう。

「エカチェリンブルクは寒いかな」
「東京と比べたら寒いだろうな」

 もしかしてこのまま夏が終わらないのではないかと思うほど日中は暑い日が続く東京と、すっかり秋の装いをしているであろうエカチェリンブルク。
 秋の肌寒さを思い出すと同時に、秋の香りや石畳を歩いたときの感覚が記憶から顔を覗かせた。日本とはまた異なるあの空気感。それは今の私にとって懐かしさを覚えるもの。そして再びあの空気の中に身を置くのだ。

「あっちに着いたら、シャルロートカ作ろうかな」
「いいな。食いたい」
「林檎買いに、一緒に市場に買い物行こうね」
「おう」
「時々連絡とってたけど、ソーニャ達に会えるのも楽しみ」
「こっちもこっちで騒がしいけどあっちもあっちで騒がしいからな」
「あはは。衛輔くんのお友達に会えたのは本当に良かったよ」
「俺も名前のことちゃんと紹介できて良かった」

 目まぐるしく過ぎていったこの1年。互いの左手の薬指にある結婚指輪を視界にいれると心はじんわりと温かくなる。

「名前」

 不意に名前を呼ばれる。柔らかくまろやかな瞳に映る私の姿。

「これからもよろしくな」

 うん。こちらこそ。ずっとずっと、よろしく。暑い日も寒い日も。離れていてもピタリとくっついていても。おばあちゃんになっても、おじいちゃんになっても。

「こちらこそ。末永くよろしくお願いします」

 そう言って小さく笑いあう。これから訪れる素敵な日々を想像すると楽しみで仕方がない。
 長い冬とそれを超えた先にある春。過ごしやすい夏や秋。繰り返す季節がいつまでも優しくありますように。変わらないものと変わりゆくものの中で、いつまでも私達らしくありますように。
 出来るだけ丁寧に日々を重ねよう。たくさんの笑顔と幸せで満たされるように。今日も明日もそれより先も。大好きな衛輔くんの隣で。
 機体は順調に、揺れることなくロシアへ向かっている。そこは私たちの新しい生活が始まる場所。私たちが出会った、大切な場所。

(22.10.20 / 完)