サンパウロに行く日


 留学が終わった時、またブラジルには時間を作って遊びに行きたいと思っていたけれど、まさかこんな形で渡航することになるとは夢にも思っていなかった。
 目指す先はリオデジャネイロではなくサンパウロ。私の夫である日向翔陽が暮らす街。そして、私がこれから暮らしていく街。

 降下し始めた機体は雲間を抜け、眼下にはブラジルの街並みが広がった。上空から見える景色だけなら日本とはそれほど変わらないようにも思える。でも徐々に地上に近づいてゆく機体に、凝らさずとも見えるようになる街のデティールがここは確かにブラジルだということを示していた。
 日本で入籍を済ませてから約半年。渡航までの準備に費やした日々を考えるとよくここまでやってきたと思う。留学の時のように学校がサポートをしてくれるわけでもエージェントがいるわけでもないのに本当に、よく頑張った。

 半年ぶりに会える。

 無事に飛行機が着陸した瞬間、抑え込んできた気持ちが溢れ出す。
 機内モードを解除。翔陽に連絡。入国審査。荷物のピックアップ。一刻も早く到着ロビーにたどり着くために無駄なく行動する。結果、着陸から約40分後、私はようやく到着ロビーにいる翔陽のもとに駆け寄ることが出来たのだった。その一瞬、留学を終えた時に翔陽が関空まで迎えに来てくれた時のことを思い出す。

「名前!」

 花が咲くような笑み。そばに駆け寄った私を軽く抱きしめると「お疲れ」と耳元で言った。そして流れるような動作で私のスーツケースを手に持ち、空いた左手で私の右手を握る。出会った頃では考えられないくらいスマートな仕草だ。

「なんか翔陽がどんどんラテンに染まっていく⋯⋯」
「え、なにそれ!?」
「エスコートが上手だなって思って」
「そう? でもこういうことすんの名前にだけだしな〜。お腹は空いてる? 疲れてない? 先なんか食べてく? あ、でも早く借りた部屋見たい!?」

 矢継ぎ早に嬉々として翔陽が言うから、私は長旅の疲れも忘れてついつい笑ってしまう。私は今日という日をとても楽しみにして過ごしてきたけれど翔陽もきっとそうだったんだろう。
 まだ翔陽が日本にいたとき、週末に泊まり込んで共同生活のようなものをしてきたことはあったけれど、でもここからは正真正銘、本当の結婚生活だ。私達が2人で日々を作り上げてゆく。

「んーじゃあ、ひとまずは部屋行きたい」

 翔陽が選んで契約してくれた新居は写真や動画でしか見たことないから実際はどんな感じなのか気になる。それに荷物も置きたいし、一度ちゃんとお風呂にも入りたい。

「じゃあタクシーだな」
「はーい」

 私の意を汲んで空港のタクシー乗り場に向かう。市内へ向かう高速道路は空いていて、マンションタイプの建物の前に着いたのはそれから約50分ほど経ってからのことだった。

「え、普通に綺麗」
「治安良いとこ選んだ! 日本人向けって言ってたからもしかしたらどっかの部屋に日本人いるかもしんない」
「確かにサンパウロはブラジルの中で一番日本人多いもんね」

 日本のマンションと遜色がない風貌のマンションを見上げる。周りを見渡しても風紀が保たれている感じがするし、きっと私のことも色々考えてくれたんだろう。エレベーターに乗り込み部屋を目指す。

「写真でも綺麗だなって思ったけど、でも生で見るともっと素敵だね。契約とかいろいろ大変だったと思うけどありがとう」
「それを言うなら名前だってこっちくる手続き大変そうだったし」

 翔陽の後に続いて部屋に入る。一旦スーツケースを玄関に置いて靴を脱ぎ部屋に入ると、そこはやはり写真で見ていたよりもずっと綺麗な空間が広がっていた。

「おお。広い。しかも綺麗〜! え、え、他の部屋も見て良いの?」
「良いも何もここが俺らの家じゃん」
「そっか。そうだよね。ここが新居かあ⋯⋯」

 今度は私が翔陽よりも先を歩いて、内覧会よろしく目に行ったドアを次々開けてゆく。リビング。キッチン。バスルーム。レストルーム。ゲストルーム。ベッドルーム。あまり物がないのは私のことも考慮してだろうか。

「家具とかは一緒に決めたほうがいいかなと思ってほとんど買ってなかったんだけど」
「そうなのかなあと思った。今度一緒に買いに行こうね」

 ベッドルームに置かれたふかふかのベッドに腰を下ろすと、その隣に翔陽が腰かけた。

「⋯⋯で、どう? 気に入ってくれましたか?」
「大満足ですね。花丸。百点満点」
 
 これから始まる生活に思いを馳せながら言うと、翔陽は嬉しそうに微笑んで、私の頬に手を添えた。
 そっと触れるようなキスを繰り返したかと思えば、次の瞬間下唇を優しく噛まれる。確かめるように食むように、じわじわと侵食してきそうな勢いに私は一度、翔陽を押し返した。

「しょ、翔陽?」
「名前も疲れてるからと思ったけど、なんか、顔見てたらやっぱり我慢できなくなってきた⋯⋯だめ?」
「だめ、じゃないけど、その、するならお風呂入りたい⋯⋯」
「じゃあ一緒に入る?」
「いやいや恥ずかしいし一人で入るよ! 翔陽やっぱりラテンに染まってる! 昔の翔陽なら恥ずかしがって絶対言えなかったよそんなこと!」

 恥ずかしさを誤魔化すように、空気に飲まれないように、少しだけ声を大きくして言う。指摘した私の言葉に自覚があるのかないのか、翔陽も気恥ずかしそうに耳を染めて視線をゆるくそらした。
 
「ごめん、久しぶりに会えてめちゃくちゃテンション上がってんだと思う。だって俺これから一緒に暮らせるのすげぇ嬉しいし」

 私と反対のかすれるような小さな声。でもちゃんと私には届く声。

「それは私もだよ。早くここに来たくて仕方なかった」

 指先が触れ合う。これから先、楽しいことや嬉しいこと、時には悲しいことや苦しいことをここで迎える。生まれた場所でも、友達がいる場所でもない。まだこの地に思い出はないし、どこになにがあるかだってわかっていない。
 でも、不安はない。だって翔陽がいる。それだけできっと、未来は明るい。

「お風呂入ってくるね」

 翔陽の頬にキスをして立ち上がる。私を見送る視線に微笑んで、ベッドルームを後にした。足取りは軽い。

 私たちの新生活がここから始まる。

(21.07.25)


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