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『今日暇? 自転車返す!』

 翔陽から連絡があったのは翌日のことだった。
 その連絡で目が覚めた私は、昨夜翔陽と連絡先を交換したことを思い出す。

「自転車、出来るだけ早く返すようにする」
「いいよ、気にしないで。次のバイト5日後だし、しばらくは使わないから」
「でも借りっぱなしだと気になるから早く返す! あ、連絡しないほうがいい時間とかある? 朝とか」
「ううん。いつでも大丈夫。真夜中でも早朝でも」
「わかった」

 そんなやり取りをした数時間後のことである。本当にすぐだ、と私は朝から笑ってしまいそうになるのを堪えた。目覚ましで起こされる朝はまだもう少し寝ていたいとぐずついてしまうけど、翔陽からのメッセージで起こされた今日はいつもよりもずっと目覚めが良い。

『授業終わったら暇だよ』
『何時に終わる?』
『十七時には終わると思う』
『じゃあビーチで待ち合わせしない?』
『了解!』

 自然と口角が上がって、これから始まる1日が良いものになるように思えた。そうだ、お気に入りの服を着ようとクローゼットを漁る。
 南半球にあるブラジルは季節が日本とは真逆で、10月半ばの今は真夏に向かう少し手前の季節だ。とは言っても夏も冬も暑いことには変わりない。日焼け止めを塗って、忘れ物がないかを確認してから部屋を出る。授業まではまだ時間があるからカフェテリアでコーヒーを飲んでから行こう。ワイヤレスイヤホンから流れる曲はアップテンポなものを選んで。


♯  ♯  ♯


 午後の授業が終わると、出来るだけ早く待ち合わせ場所に到着する為に地下鉄に乗った。SiqueiraCompos駅で降り、アトランチカ通りを目指すように真っ直ぐ歩けば徐々にコパカバーナビーチが見えてくる。日夜問わず観光客であふれるこのビーチの中から翔陽を探すのはさすがに困難で、翔陽に連絡を入れる。

『着いたよ。遊歩道のところにいるんだけど、翔陽はどこにいる?』
『試合見てた! 今いく。遊歩道のどこらへんにいる?』
『この前の試合と同じ場所だよね? ここだと目印になる場所ないから私がそっちに行くね』

 十月から始まった大会。今日は翔陽とエイトールの試合はないけれど、午前中にバイトを終わらせた翔陽はそれからずっとここで試合を観覧しているらしい。
 救護ステーションのそばまで歩いて、翔陽らしき人物を探す。照り付ける日差しから身を守る為にキャップとサングラスを身に付けている翔陽が目に入った。駆け寄ってその名前を呼べば、目の前の試合に向けられていた視線が私に向けられる。

「翔陽、お待たせ。あ、試合終わってからで大丈夫。隣座るね」
「うん」

 断ってから隣に座ってその横顔を盗み見る。おもちゃを与えられた子供のような、新しい洋服を買ったときのような、身体の奥深くから湧き上がる高揚を翔陽から感じられる。
 日中は肌を刺すような日差しも、試合の勝敗がつく頃には段々と穏やかさを孕むようになっていて、気が付けばコパカバーナのビーチには夕日が射し込むようになっていた。

「あっ自転車!」

 まだ持て余すような熱を瞳に携えて、思い出したようにそう言った翔陽は私を見る。

「駐輪スペースのところに置いてるから待ってて」
「いいよ。鍵だけ渡してくれたら自分で取りに行けるから。もう少しだけ夕日が落ちるの見届けてから帰りたいなって」
「今日の夕日、すげぇ綺麗だよな」
「うん」

 翔陽の視線をなぞる様に、私も同じ方向を見つめる。鮮やかなグラデーションの空に、燃えるような夕日がゆっくりと落ちていく。

「朝日も凄い綺麗なの知ってる?」
「朝日⋯⋯そう言えばちゃんと見たことないかも」
「俺、よく早朝にビーチきて精神統一してるんだけど、ゆっくり昇ってくる太陽もめちゃくちゃ綺麗」

 夕日を浴びた翔陽の髪の毛が照る。キラキラと光るみたいに。私に向けられる笑顔もそう。眩しいのにずっと見ていたくなる。単純に「綺麗」という感情だけではない事はわかるのに、それ以外の名前をまだ、わかっていない。

「あっ今度一緒に見よ! 誘う! いい?」
「う、うん!」

 一瞬、奪われた。
 何を、と言えば戻れないような気がして私は考える事を放棄する。奇跡や運命なんてものはいつも突然にやってきて、無責任にいろんなものを変化させてゆく。翔陽に奪われた感覚がゆっくりと輪郭を取り戻すのを感じながら、明日も晴れますようにと願うのが精一杯だった。
 
(20.12.09)


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