忘れ物をした客

「あの、忘れ物ありませんか? エメラルドグリーンの箱に入った、小さいこれくらいのものなんですけど」

 脇目も振らずフロントに直行した昼神幸郎は開口一番にそう言った。駅から走ってきたのであろう、肩は上下に動き呼吸は荒かった。

「確認いたしますので少々お待ちください」

 ダッフルコートを脱ぎ小脇に抱え、ようやく呼吸を整えられると昼神は深呼吸を繰り返す。
 やってしまった。部屋を出る直前に確認していたというのに、まだ新幹線のチケットを忘れたほうが良かったと昼神は己の失態を悔いた。

「お客様」
「ああ、はい」
「お名前とご宿泊された日付をお教えいただきますか?」
「昼神幸郎。12月23日……確か、701号室に宿泊しました」

 ホテルスタッフの丁寧な仕草が今は悠長だと思ってしまうくらい、昼神は急いでいた。早くしないと今日が終わってしまう。

「確認いたしました。お忘れ物はこちらでお間違いないでしょうか?」

 エメラルドグリーンの箱がようやく昼神の前に差し出される。同様に、それを入れていた紙袋も折りたたんで差し出され、昼神は安堵のため息を吐いた。箱が潰れている様子も、リボンの乱れもない。紙袋も心無しか宿泊した時よりもきれいになっている気さえする。これが高級ホテルの持つ魔法なのかと非現実的な事を考えてしまうのは聖夜だからということにしたいと昼神は咳払いをした。

「これです。すみません、ありがとうございます」
「お気をつけて行ってらっしゃいませ」

 フロントの女がより一層丁寧にお辞儀をする。つられるように頭を下げた昼神は足早にホテルのエントランスを抜けようとした。

「綺麗だったね」
「泣きそうだった……て言うか泣いた」

 今しがた終わったばかりなのであろう結婚式のゲストたちがロビーを歩く昼神の前を通り、すれ違いざまに聞こえる会話を意識的に耳にしてしまったのは、昼神がこれからこのプレゼントを持ってプロポーズをする予定だったからだ。

(俺も今日、ちゃんとプロポーズして、そして結婚式を挙げよう)

 失態で忘れかけていた決意と熱量を取り戻す。東京駅から長野駅まではおよそ2時間。今乗れば今日中に彼女の家へ行くことが出来る。

『ごめん、少し遅くなったけどこれから新幹線で長野に戻る。着くのは多分22時頃になりそうなんだけど、会える? いや、ごめん会いたい。時間作ってほしい』

 人の都合も聞かないで随分と一方的なお願いをしていることは昼神自身もわかっていた。それでもこれは、昼神にとって言わなくてはならない言葉だったのだ。

『学会お疲れ様。じゃあ会える準備しておくから長野についたら教えて。遅いし駅まで迎えに行くね』
『うん。ありがとう』
『帰ってくるまでが学会だよ』

 まるで小学生の遠足だ、と昼神は笑ってしまいそうになった。それでもそういうところが好きだと心に暖かい光が灯る。
 一緒にいると穏やかな気持ちになれて、幸せはどこまでも続いているような気がする。無理をすることも、意地を張ることもない。ただ愛おしさが際限無く広がって心が満たされる。昼神にとって名前はそういう人だった。そういう人だから、クリスマスイブの今日、昼神はプロポーズをする。
 ホテルリガーレで結婚式を挙げるのも良いかもしれないと思いながら新幹線に揺られ、長野駅まで着けば改札口でコートとマフラーにくるまった名前が目に入った。

「名前」

 その名前を慈しむように口にする。嬉しそうに頬を緩めた名前の「おかえり」と暖かな声。駅の窓から見える外の景色は雪景色だけれど、寒さなんてどうでもいいと思えるくらいだ。

「どうだった? ホテルリガーレ。さっきテレビでレストラン紹介されてて幸郎泊まってるところだ羨ましい! ってなったんだよね」
「凄く豪華で綺麗だったけどレストランには行ってないからわかんないな」
「すっごい美味しそうな伊勢海老とか、有機野菜に雲丹のジュレとかオシャレな料理もあって、夜景も綺麗でさすが都会って思ったよ」

 楽しそうに話をする名前を横目で見ながら、昼神は思う。行きたいと言われれば連れて行ってあげたくなる。食べたいって言われれば食べさせてあげたくなる。自分が思っている以上に自分は名前の事が好きなんだろう。

「今日、俺の部屋来るよね?」
「うん。あ、クリスマスだしコンビニでチキンでも買って帰る?」
「名前、コンビニのチキンで良いの?」

 せっかくのクリスマスイブなのに。

「いいよ。豪華じゃなくても高級じゃなくても、幸郎と一緒なのが楽しいから。だからコンビニのチキンでも全然問題ない」

 そっと手を握る。冷たいそれを包むように。

「手冷たい。ごめん、結構待たせた?」
「ううん。それに待つのも嫌いじゃないから」
「そっか」

 今日、帰る場所は同じところ。でも明日も同じ場所だと良い。それがずっと続くなら尚の事良い。ポケットに入れた小さな四角い箱の存在を思い出しながら昼神は考える。どんな雰囲気でどんな言葉を言おう。きっと名前は受け入れてくれるから余計な心配は一切ない。

「幸郎なんかちょっと楽しそうだね?」
「そう? 後で名前にもお裾分けしてあげる」
「お裾分け? なんか面白いね」

 エメラルドグリーンの箱を名前が受け取るまであと数十分。クリスマスイブの夜に降る雪はまだ止むことを知らない。