レストランにいるふたり

 ホテルリガーレの36階にあるフランス料理を扱うレストラン「ル・リアン」は長きにわたりホテルリガーレのメインダイニングとして数多くの来賓客をもてなしてきた。
 代々受け継がれてきた伝統的なフランス料理に加え、歴代の料理長らによって生み出されてきた数多くの料理には皆が舌鼓を打つとしてディナーやランチのみならずモーニングも人気を誇っている。
 360度広がるパノラマウィンドウからは東京の街並みが見渡せ、中央部に構える巨大水槽では優雅に魚が泳いでいる。そのロマンティックな内装に夜は特に恋人同士の利用が目立つが、夜景を見渡せる席を予約した黒尾鉄朗もまた、例外ではなかった。

「金曜日の夜のル・リアンの窓側の席なんてよく予約とれたね」
「んー? まあね」

 ドレスコードであるジャケットは持っている中で1番上質なものを選んだ。別にプロポーズをするわけでも今日が記念日というわけでもないけれど、こうやって恋人を喜ばす為に理由は必要ないと、なんでもない日に特別をもたらす事は黒尾にとって躊躇うようなことではなかった。
 ただ好きな人の喜ぶ顔が見たいだけ。シンプルな理由は黒尾を動かす原動力としては十分だった。

「……結構前から予約してくれてた?」
「内緒」
「鉄朗はさ、こういうことスマートにさらっと平然と普通に当たり前みたいにやっちゃうよね」
「褒め方が過剰なのかなんなのか」
「ありがと」

 夜景を見つめながら食前酒を口に含む名前を見つめる。腕の部分がシースルーになっているバイアスチェックの黒いワンピースは前回のデートで名前が購入したものだ。試着をした時も思ったが、黒尾は再度同じ言葉を口にした。

「その服似合ってんね」
「鉄朗、この前もそう言ってたね」
「俺の好きなタイプの服装なもので」
「ちょっとドレッシーだから着ていく場所は限られるんだけどね。初おろしがル・リアンなんてテンションあがるよ」
「テンションあがってんの?」
「あげあげだね」

 見える景色は美しく非日常的だとしても、一緒にいられることで日常的な居心地の良さを与えられる。

「今日はどんな1日だった?」
「なあに、それ」
「いや、知りたいと思って」
「普通だよ。会議出て、案件捌いて、アポ取り付けて。鉄朗は今日も奔走した?」
「奔走したねえ」
「奔走したかあ」

 ギャルソンがアミューズのお皿を下げ、オードブルの皿を置いた。

「こちらは前菜です。有機人参のムースに雲丹のコンソメジュレを添えたものになります」

 カップに入った色鮮やかな前菜はどの角度から見ても美しい。ギャルソンが下がったのを見届けて、先に口を開いたのは名前だった。

「なんでもない日に食べるディナーにしては豪華すぎない?」
「なんでもない日だから豪華に食べてもいいんじゃない?」

 具体的な理由が添えられているわけでもないのに、時々黒尾の言葉には妙な説得力があると名前は思っていた。一瞬、プロポーズでもされるのだろうかと勘ぐってしまいそうになったけれどそれは違うだろう。この人はもっと日常に溶かすようにプロポーズの言葉を言うだろうから。
 フランス料理のマナーを思い出しながら、次々と運ばれる料理を口にする。スープ、ポワソン、ソルベ、アント、デザート、そしてカフェとブティフール。結局フルコースをちゃんと食べてしまったと満腹になったお腹をおさえる。

「どうだった?」

 黒尾の問いに、サイドに見える東京タワーを見つめた。どうだったとこの聞かれたら最高だったとしか言いようがない。ロケーションも、味も、全てが完璧だ。

「明日からも仕事頑張れそう」
「じゃあ良かったわ。最近すげぇ頑張ってたみたいだから」
「……それでわざわざなんでもない日に?」
「なんでもない日を毎日頑張ってるんだから、ご褒美くらいあったっていいんじゃねえの?」

 名前はありがとうを上回る言葉を探した。何をどう言葉にしたらこの気持ちが伝わるのだろうか。これから共に帰る場所は、絢爛豪華な内装でも、有名な調度品があるわけでもない。明日になればまたコンビニ弁当でお昼を済ませることも多々ある。
 それでも、黒尾が与えてくれる幸せは、どこにいるか何をするかで優劣をつけるようなものではない。有名ホテルのフランス料理でも、スーパーで買う半額になったお弁当でも、大事なのは黒尾がいるという事。

「あのさ、大好き」
「急だねぇ」

 なんでもない日を彩ってくれる。互いがその存在であるということを確かに感じる。

「鉄朗は?」
「俺も好き」

 満足そうに名前が微笑むのを見つめて、黒尾もまた幸せを心に宿す。しばらくは有機人参のムースも雲丹のコンソメジュレも食べることはないだろうけれど、続いていく日常はこれからも蓄積される。築き上げる歴史のように。

「そんじゃあゆっくり帰りますか」
「うん」

 ル・リアンから見える東京の夜景は、今日も誰かの心に光を灯す。