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 教室に戻って、席についている孤爪くんを見る。どうする、私。先程の黒尾先輩の言葉を素直に聞いて孤爪くんを誘うか、誘わないか。
 迷うけど、それでも心の奥底で思う。黒尾先輩の言葉を素直に聞かないと、孤爪くんと話すことなんてそうそうなくなっちゃうんだろうな。だって私が孤爪くんとしたいのは、事務的なものでも、業務的なものでもなくて、意味があってもなくてもいいような、そんな会話なんだから。
 よし。意を決して孤爪くんの席に向かい、歩く。心なしか大股になっている気がする。ええい、今はそんなことどうでもいいのだ。心臓が少しずつ、少しずつ、速度をあげる。

「こ、孤爪くん」
「……あ。名字さん」

 名前を呼ばれたのはいつぶりだろう。久しぶりのそれになんだかくすぐったく感じてしまう。心臓の速度は相変わらず軽快にアップしている。告白するわけでもないのに、こんなに緊張するとは。

「えっと、どうしたの?」
「あ、あのね」
「うん……」
「木曜日、部活がないって聞いて」
「ああ、うん。ないけど」
「それで、アップルパイ好きだって聞いて」
「好き、だけど」
「よろしかったらなんだけど、木曜日に、アップルパイを一緒に食べに行きませんか……!」

 震える。心が、空気が、瞳が。孤爪くんは目を見開いて私を見つめる。その視線に負けてしまいそうだ。反らせば少しは気楽になれるのかもしれないけれど、反らすこともまた難しいように感じた。

「……いいよ」

 先に視線を反らしたのは孤爪くんのほうだった。抑揚の薄い声色で吐き出された返事に安堵する。いい、のか。それはつまり木曜日の放課後、一緒にカフェに行くということだ。改めて考えると、なんというか、夢なんじゃないかって思う。木曜日。明後日。私と孤爪くんがカフェに。ああ、だめ、やばい。これはやばい。
 
「あっ、ありがとう」

 口早にそう言うと、私は自分の席へ戻った。心臓が爆発してしまいそうだ。こんな喜びって世の中にあったんだな。鳴り止まない鼓動。そして達成感。恋とは罪悪? いやいや、素晴らしいじゃん。最高じゃん。今、私の瞳に映る世界は輝いている。 


△  ▼  △


『え、それってデートじゃん。放課後デート』
「そ、そんな。そんな、さあ、そんなんじゃないってば」
『落ち着いて。気持ちはわかるけど落ち着いて』
「だ、だって……」

 その夜、ゴンちゃんに電話を入れた。学校ではゆっくり話せなかったし、孤爪くんが教室にいるのに本人の話を出来るわけないし。

『でも良かったじゃん。名前ちゃん、孤爪くんと話せなくて寂しー! って泣いてたじゃん』
「泣いてはいない!」
『あれ、そうだっけ。なんにせよ良い機会だよ。せっかくデート出来るんだから話さないと』
「なにを? え、もしかして告白しろってこと?」
『いや、そこまでは。でもまあ、ありかもね。だって孤爪くんのこと好きでしょ?』

 ゴンちゃんが柔らかい声で笑う。そう、多分、これは恋だ。わかってる。寂しいと思ったり、話したいと思ったり、そういうのが恋だって、今までだってしてきたはずなのに、今回のそれは少し歯痒い感じで戸惑う。好きって認めてしまったら、引き返せない感じ。だけどもう誤魔化せられない。背けられない。私は孤爪くんに恋をしてる。あの日、孤爪くんに心を奪われた日からずっと、じわじわと心を侵食されていた。孤爪くんの、透き通るような瞳に。真っ直ぐな視線に。

「……好き、だね」
『ほらね』
「恥ずかしくて死ねる」
『待って待って。いや、まあ、正直な話、告白はしなくても素直になっても良いと思うよ』
「素直って?」
『本当は孤爪くんと話したかったよーって』
「……それくらいなら、まあ、いけるかな」
『ま、緊張ばっかりじゃなくて楽しみなよ』
「ゴンちゃんの余裕が欲しい」

 ベッドに寝転がる。お風呂からあがったばかりの湿った髪が枕に広がった。あーあ、このまま眠っちゃいたい。なんだか今なら孤爪くんが夢に出てきてくれる気がする。

『頑張ってね、名前ちゃん』
「ありがと」

 それじゃあまた明日、と通話が切れる。ツーツー。その音を聞きながら、やっぱりこのまま眠ってしまいたいなと思った。孤爪くん、孤爪研磨くん。心のなかで何度か彼の名前を呼んだ。……なんだろう、私は変態かもしれない。告白する勇気は私にまだないけれど、でも話せて嬉しいよって、一緒にアップルパイ食べられて嬉しいよって、言えたら良いなぁ。
 濡れた髪を乾かさなくてはいけないっていうのに、眠気が襲う。だめ、明日の学校の準備もしてないのに。ああ、眠っちゃいそう。うつらうつらと夢の狭間を巡ってる私の頭に朧気に孤爪くんが浮かんでくる。ほら、やっぱり。孤爪くんが夢に出てきてくれるって思ったんだ。夢の中の孤爪くんに誘われるように、私はゆっくりと夢の中に落ちていった。

(15.11.03)