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 熱が出た。そのタイミングに、なにこれ、幸せの代償か? と思ったけれど、どうやら熱にうなされた頭ではろくなことを考えないらしい。学校を休んで一日中布団の中。それでも夜になる頃には熱も下がって微熱になった。幸い明日は土曜日だし、月曜日からは元気よく学校に行けそうだ。本当は今日、孤爪くんと話をしたかったのに。そんなことを考えながら、玄関で靴を選んでいるお母さんを見つめていた。

「熱下がったんでしょ? お母さん、お父さん迎えに行ってそのままご飯行くけど大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫。結婚記念日くらい娘のこと忘れて楽しんでよ。てか別に熱あっても一人で問題ないから」
「なんかあったら連絡してね? じゃあ帰るときにまた連絡するから」
「はーい。楽しんできてね」

 めかしこんだお母さんを見送った。手を降るためにあげた腕を降ろす。……レストランいいなぁ。羨ましげに玄関の扉を見つめる。さあ私も適当に夜ご飯食べるか、と台所へ向かおうと踵を返そうとしたその時、チャイムが鳴った。お母さん忘れ物かな、とサンダルに足を入れて扉を開ける。チャイム鳴らすとか鍵出すのどんだけめんどくさいの、と思いながら。

「なに、お母さん忘れも……え?」
「……こんばんは」
「こ、こんばんは……」

 しかし、扉を開けて目に入ったのはめかしこんだお母さんでもなく、近所のおばちゃんでも、集金のおじさんでもなく、孤爪くんだった。いやいや、なんで? ポカンと口を開けて間抜けずらしたままの私に孤爪くんが話しかける。

「具合、大丈夫?」
「えっ。あ、うん。だ、大丈夫! 今はもうね、微熱になったから元気元気!」

 はっと我を取り戻して気付く。私、パジャマにサンダルという最悪な格好なんだけど。なんでこのタイミング? てかなんで私は可愛い部屋着着てないの? ふわふわおしゃれガール御用達の部屋着くらい着ててよ私。

「……これ、権田原さんから預かったんだけど」
「ゴンちゃんから?」
「今日の、配布物」
「……わざわざ届けに来てくれたの?」
「まあ……。ないと名字さん、困るかなって思ったから」

 差し出されたプリント。視線を斜め下に向けて孤爪くんは言った。これは夢だろうか。ゴンちゃんのアシストに感謝せざるを得ないし、何よりも部活終わりにわざわざ途中で下車して家まで来てくれた孤爪くんの優しさが病み上がりには涙を誘う。
 なのに気持ちは桃色にぐんぐん広がり、涙を流すどころか、顔が緩んでヘラヘラしそうになるのを抑えられない。不謹慎だけど、熱だして良かった。

「あ、ありがとう。……嬉しい、です」
「課題入ってるから、嬉しくはないかも。ごめん」
「あ……いや、そっちではないけど、まあいいや。うん、はい」

 孤爪くんから配布物が入ったファイルを受けとる。あ、この後はどうしようと少しだけ困って、口を開く。

「あの、部活終わり……だよね? 疲れてるのにわざわざありがとうね」
「……いいよ、別に。それより熱下がってて良かった」
「嫌ってほど寝たから。月曜日はいつも通りに学校行けそう」
「うん。安心した」

 孤爪くんは優しいと思う。今更、といえばそうなんだけど、孤爪が柔らかい表情を見せる度に私はそんなことを改めて思う。孤爪くんの雰囲気なのかな。まだ孤爪くんと仲良くなる前は取っつきにくいなと思っていたのに今では真逆なんだから、人生何があるかわからないものだ。

「孤爪くんも、季節の変わり目だから、体調気を付けてね」

 孤爪くんが頭を上下に小さく動かした。生え際の黒が伸びているな、と久しぶりに思った。そういえば、あの日からだいぶ時間が経ったな、と。いつのまにか孤爪くんとの時間がこんなにも増えていたんだなと感じる。1つの季節が移ろう中で、私は孤爪くんに恋をした。春は私に恋を連れてきた。
 ああ、けれど、もうすぐそこに夏がいる。苦しいほどに暑くて、爽快で、青々としていて、どこまでも伸びゆくのではないかと錯覚するような、夏がすぐそこまで来ているのだ。

「……じゃあ、また」
「うん。本当にありがとう」

 手を振る。心の中で孤爪くんの名前を呼んだ。孤爪研磨くん。そのまま全てが孤爪くんに届いてしまえばいいのに。やはりまだ、熱にうなされているのかもしれない。

「……あ。名字さん」
「どうしたの?」

 孤爪くんがドアノブにて手をかけたまま振り向く。見透かすような瞳に、私の心臓が大きく動いた。

「クロが言ったんだけど」
「黒尾先輩?」
「名字さんは、おれのこと……」

 そこまで言って、孤爪くんは視線を逸らした。少し気まずそうにしながら。

「ごめん、なんでもない。……忘れて。それじゃあ、おやすみ」

 ドアが閉まる。残された私の脳内に孤爪くんの言葉が響く。何で最後まで言わないの。何を言おうとしたの。黒尾先輩は余計なことを言ったの? 孤爪くんは、私の気持ち気付いちゃったの? 顔が火照る。ああ、もう。せっかく熱が下がったと思ったのに。

(15.11.13)