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 激しく降る雨が、世界を切り離すかのようだった。孤爪くんは私を見ていた。「どんな本?」整った唇が動く。身体の奥のほうが強く握りしめられているようだ。孤爪くんの声の一言一言が、鮮明に耳に届く。一度、視線を下に向けた。呼吸を整えて、孤爪くんの視線を捉える。瞬間。何かが疎通したかのように感じられた。不思議と、ああ、孤爪くんも緊張しているんだな。と思った。それは少し、気まずさにも似ていた。だけど、柔らかい感情を含んだそれは、気まずいよりもやはり、緊張に近いのだと思う。私は孤爪くんの問いかけに答えるために口を開いた。

「星の王子さま、知ってる?」
「うん、まあ……。名前くらいは」
「普段はそんな小説を読むってわけじゃないんだけど、これだけはずっと好きで」
「そう、なんだ」

 あ、孤爪くんて、本に出てくるきつねっぽいかも。なんとなく、そう思った。どこが、と言われれば答えられないけれど、なんとなく。私たちの関係性が王子さまときつねみたいだなって、そんな風になんとなく。

「あの、孤爪くん」

 私の声は孤爪くんに届く。そのまま、この想いを乗せたら孤爪くんはどんな顔をするだろうか。驚くのだろうか。それとも、今まで私が見たことの無いような表情をするのだろうか。孤爪くんは私を見た。それだけでもう、苦しいのだから困る。

「なに」
「あの……」

 黒尾先輩の言葉が脳裏に浮かぶ。「研磨は名前ちゃんのこと好きだと思うけど」その言葉が嘘か、私を持ち上げるために言ったのか、黒尾先輩の本意は分からないけれど。それでも、と私は期待をする。孤爪くんが私を好きだったら。
 先週、孤爪くんがプリントを持ってきてくれたときに彼は言おうとした。名字さんは、おれのこと。その言葉の続きが、おれの事をどう思ってる? だったら私はちゃんとこの想いを届けることが出来るだろうか。おれのことを好き? だったら強く頷けるだろうか。

「あ……ふ、服、そろそろ、かな? 見てくる、ね」

 駄目だ。言えない。私は立ち上がると洗面所へ急いだ。乾燥機に入ってる孤爪くんの服を取り出す。ああ、雰囲気に当てられてる。自分自身に戸惑いを覚えながら服を畳む。そのままリビング戻って「乾いたよ」と孤爪くんに服を渡した。

「……ありがとう」
「着替えはまた向こうの部屋でどうぞ」
「うん」

 何を一人でやっているんだろう。孤爪くんが隣の部屋に行くと同時に思う。なんだか私らしくない。一度、気を引きしめた。私がこんなんだと、孤爪くんが緊張してしまって当然だ。よし、と気持ちを切り替えたタイミングで着替え終わった孤爪くんが戻ってきた。

「お、おかえり」
「これ……ありがとう」
「ううん」

 先ほどまで孤爪くんが着ていた服を受けとる。外を見ると、雨足落ちついていた。傘を貸してあげれば、問題なく駅まで辿り着けるだろう。孤爪くんも同じように考えているのか、窓の外を見ている。

「あっ雨、落ちついた、ね」
「うん。これなら、駅まで行けそう」
「傘、貸すね」
「え」
「えっ?」

 孤爪くんの反応に私は驚く。なにか変な事を言っただろうか。

「……名字さんからは、よく傘を借りる気がする」
「ああ、そっか。前にも貸したよね。なんだか懐かしい。確か、ビニール傘が何本かあったらそれ貸すね。それなら返してもらわなくても大丈夫だから」
「いや、でも」
「いいの、いいの。お父さんよく傘忘れて買ってくるんだー。その度にお母さんに怒られてるんだけどね」
「……なら、借りるかな」
「うん」

 静寂。だけど嫌な感じはしない。むしろ良い。それでも、どちらからともなく、別れの予感を感じ取った。孤爪くんが「じゃあ……」と言った声を聞いて、私も立ち上がって玄関に繋がるドアを開けた。どうぞ、と彼を促す。玄関で靴を履き終えた孤爪くんに約束のビニール傘を渡した。

「ありがとう」
「ううん。気を付けてね」
「うん……」

 孤爪くんがドアノブに手をかける。ほとんど反射のように、私の口が動いた。「あのっ」空気を切るように吐き出した自分の言葉に、自分でも驚く。それでも勢いとは怖いもので、奥底に疼く好奇心がエンジンとなって私の言葉は止まることなく続いた。

「ど、どうして私に連絡、してくれた、の?」

 孤爪くんが視線を反らす。ああ、何かを考えているんだな。最近気付いた。孤爪くんがこんな風に視線を反らす時って、思考を巡らせるときだって。案の定、孤爪くんは少し時間をおいて口を開いた。私の緊張は続きっぱなしだから心は休まないけれど。

「……最初に駅、降りたとき、名字さんのこと思い出して、帰り道で雨が降りだして……本当は駅まで走ろうと思ったんだけど、そしたらまた、名字さんの顔が浮かんだから、迷惑かもって思ったけど、連絡してみた」

 その言葉が届いた瞬間、私のなけなしの度胸みたいなものが総動員されて緊張しているはずなのに、いや。緊張しているからこそ、その勢いのまま私は再び孤爪くんに問いかけた。

「……あの、も、もし、私が孤爪くんのこと好きだって言ったら、どう思う?」

(15.11.18)