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 走って乱れてしまったあろう髪を整えて、孤爪くんの座っているベンチまで歩いた。孤爪くんと少し距離を空けて隣に座る。

「……ごめん、遅くに」
「ううん。大丈夫。でも、ちょっと驚いたかな」
「うん、ごめん」

 ああ、違う。謝って欲しいんじゃないんだけどな。と自分の言い方を反省した。孤爪くんは視線をきょろきょろと動かして、何かを言えたげに口を開いては閉じ、開いては閉じ、と繰り返していた。緊張しているのかな。なんとなく孤爪くんの様子を感じ取って、それが伝染してきちゃったかのように私の心臓もバクバクと鼓動を鳴らしている。

「あの、その……伝えたいことって」
「う、うん」

 意を決して孤爪くんに問う。孤爪くんは身体を少し固くして、私の方を見た。あ、飲まれそう。その瞳を見た瞬間に思う。しゃんと背が伸びているわけでも、眼光が鋭いわけでもないのに、むしろ少し頼り無さげな瞳が揺れているのに、なぜか私は孤爪くんのその瞳に飲み込まれそうになった。いつかの時のように、私たちの周りの時間がピタリと止まったんじゃないかなって錯覚になる。
 孤爪くんは何を伝えるつもりなんだろう。いや、普通に考えて、あの時の返事だよね。わざわざ呼び出しているんだから。だとしたら、それは私にとって良い話なのか、悪い話なのか。聞きたい。知りたい。だけど、知りたくない。心臓がいっそう高鳴る。

「……この間、名字さんに言われたこと、ずっと考えてたんだけど」
「……うん」

 孤爪くんは私から視線を反らして、下の方を向いた。私は少し身構える。

「どういう風に言ったら名字さんに伝えられるのかその……わからないけど、おれは名字さんのこと、友達とは思ってないんだと思う」
「え?」
「おれは目立つの嫌だし、めんどくさいのとか疲れるのとか、好きじゃないから本当は……試合見に来られたり、誰かと一緒に帰ったり家に行ったり、そういうのもめんどくさいことだって思ってて、だから名字さんだとなんでそう感じないのかなって凄く……不思議」

 孤爪くんの言葉は、一言一言が確かめるように発せられていた。それはゆっくりと夏の風に乗って私の耳に届く。泣きたいような高揚。歯痒い苦しみ。そんな感情を心に抱きながら、孤爪くんの言葉を聞いていた。

「でも名字さんは、クロとか部活の仲間とか、そういうのとも違うなって思う。……ゲームするのまあ、楽しいなって思うけど名字さんが側にいると、集中しにくくて困る。でもそれが嫌じゃないから……もっと困る」

 孤爪くんは視線を反らしたまま続けた。

「……おれは、名字さんみたいに上手く伝えられないけれど、名字さんと一緒にいると他の人とは違う感じになる。めんどくさいことも、名字さんなら、嫌じゃない」

 一呼吸置いた孤爪くんは、下に向けていた視線を私に向けた。どくり。心臓が大きく脈打つ。身体中の血液がぐるぐる廻っているんだろうなって何となくわかっちゃう感じに、奇妙さを感じた。生ぬるい風は頬を撫でる。無意識に身体に力がこもる。

「おれはクロみたいに格好良い事スマートに出来ないし、リエーフみたいに身長も高くないし、翔陽みたいに元気じゃないし、本当はもっと格好よく伝えられたらいいんだけど……。おれは、名字さんのことが、好き、だから。……だからえっと、これからもそんな風に一緒に居られたらなって、思う」

 いざ、孤爪くんの口からその言葉が出来たら、私の頭の中は真っ白になった。え、今、何て言ったの? 好きって言ってくれたの? 私の聞き間違いじゃないの? 都合の良い幻でもないの?
 色んな感情が押し寄せてきて言葉にできない。それでも孤爪くんに何か言葉を返さなくては。そんな思いからどうにか口を開こうとするけれど、間抜けに開かれた口から出てくるのは「う……あ……えっと、その」なんて間抜けな言葉だった。 

「……ごめん。夜に呼び出して、こんな長い話」
「ぜっ、全然、その、嬉しくて何を言ったらいいのか分からなくて」
 
 それでも深呼吸して、私は孤爪くんを真っ直ぐに見つめた。

「わ、私も孤爪くんが好き。黒尾先輩でも、他の人でもなくって、今、私の目の前にいる孤爪くんが大好き」

 孤爪くんは満足そうに顔を綻ばせて、うん、と柔らかく笑った。ぎゅうと、心臓が捕まれる。私、こんなに幸せでいいんだっけ。抑えきれない感情に、泣きそうなほど気分は高揚する。理由がなくても会いたいと言える。試合を応援出来る。そして、隣に居られる。

「なんか……照れる」

 孤爪くんが言った。単純に、好きと言う感情が私の身体を乗っ取ったかのように支配する。他の事が頭からすっぽり抜けていったみたいに。凄く不思議。自分じゃない自分が居るみたい。

「私、幸せで死にそう」
「えっ」
「だって私、孤爪くんの事、凄く好きなんだよ。これが人生のピークなのかなって思う」
「お、大袈裟だってば。あと何回も……好き、とか言われると恥ずかしいから……止めて」

 なにそれ。なにその顔。何度私の心臓を撃ち抜けば孤爪くんは気が済むのだろうか。ああ、もう、好きだ。大好きだ。同じ好きになれて、私は今、世界で一番幸せだって豪語できる。
 ハリネズミみたいな私たちの恋は、夏の夜に柔らかな花を咲かせた。これからも私たちは手探りで不器用な恋を育ていくだろう。二人で一緒に。だって夏はまだ始まったばかりだし、この胸の高鳴りはいつまで鳴りやむ事がないのだから。


△  ▼  △


「なっつやっすみー!」

 スカートが揺れる。チャイムの音は、夏休みへの突入を歓迎してくれるかのよう。先生の言葉を適当に聞いて、そう、これから夏休みが始まる。学生鞄を肩にかけて陽気に玄関に向かう私とは対象的な孤爪くんを見た。

「孤爪くん、夏休み嫌なの? なんか浮かない顔だよ?」
「合宿あるし……暑いのは嫌だから」
「ああ、そっか。1週間だもんね」

 嫌そう、というか面倒くさそうな顔をした孤爪くんだったけど「でもまあ、翔陽と会えるのは楽しみ、かな」と言った。なんだっけ、確か、宮城の仲良くなった男の子? だった気がする。

「その、あんまり会えなくて、ごめん」
「え」

 孤爪くんの言葉に私は動揺した。孤爪くんからそんな言葉を言われるとは思ってなかったし、なんというか、つまり、キュンってやつ。格好いいし、可愛い。私は口元が締まらないまま、にやけそうになるのを抑えて言葉を続けた。

「気にしないでよ。私、孤爪くんのバレーしてるとこ見るの好きだから試合も楽しみだし、孤爪くんも頑張ってるんだな〜と思うと、私もバイト頑張れる!」
「……名字さんは、恥ずかしいことを恥ずかしげもなく言えるから凄いよね……」
「えっ、そうかな?」
「うん。それよりまたバイトするんだ」
「欲しいもの色々あるし、身内のコンビニだから頼みやすくて。あ、ねえねえ、孤爪くん」
「なに?」

 玄関で靴を履き替えた私を孤爪くんはじっと見ている。

「会えない時間に愛を育てるためにも、ほんのちょっとでいいから、離れてるときに私のこと思い出してくれたら嬉しいな。そしたら私、離れててももっと頑張れる!」

 孤爪くんは少し驚いたような顔をして、でもそのあとちょっぴり照れて、でも「……わかった」と返事をしてくれた。私の口角がまたしても上がる。

「それじゃあ、また、連絡するね! 部活いってらっしゃい!」
「うん。名字さんも、気をつけて帰って」

 バレー部のジャージを着ている孤爪くんに手を振る。彼は体育館に向かい、私は家に向かう。頑張ってね、と一声かけて、私は学校を出た。小さく手を振る孤爪くんにやっぱり口元はにやけてしまうし、舞い上がる心は止まらない。燦々とした太陽も笑っているように思える。これからきっと、眩しくて煌めいた私たちの夏がやってくるんだろう。

(15.12.09)