10


 迂闊だった。夏休みのせいで曜日の感覚が鈍くなっていた。そう、この時間は帰宅ラッシュなのである。
 そろそろ夜ご飯の時間だから帰らなくちゃね、と後ろ髪をひかれる思いで二人で駅へ向かったのだが、異様に人が多い。帰宅ラッシュに加えて他の線に遅れが出ているらしい。隣にいる孤爪くんをこっそり見上げたらげっそりとした顔をしていた。……人ごみ嫌いそうだもんなぁ。
 とは言え、この電車に乗らなければ私も孤爪くんも家に帰れない。デートの余韻すらも人に紛れてしまいそうだと思いながら、私たちは押し込まれるように車内に入る。

「せ、狭い……」
「名字さん、大丈夫?」
「う、うん。なんとか」

 車内は冷房がガンガン効いてるって言うのに、人が多いせいがどことなくじんわりとしている。孤爪くんも辛そうにしてるのかな、と見上げる。想像してたよりも近い距離に、一瞬全てが真っ白になった。
 ハッとして孤爪くんを見つめる。あれ、近いと余計に身長が高く感じる。孤爪くんと私って思ってるよりも身長差ある? いや、それよりも近いんだけど。辛そうに窓の方に視線向けてるけど、首筋とか、髪の間から覗く耳とか、何て言うのこれ。色っぽい……いやいや、満員電車だって言うのに何を考えているんだろう私。
 急に恥ずかしくなって視線を下げる。デートの余韻なんて人ごみに消えたよ、なんて思ってた筈なのに、急にまた私の心臓が高鳴る。やめてよ、もう。こんなところでこんな風に考えてるとか絶対気持ち悪いやつじゃん。ああもうこんなの心臓が耐えられないんだから早く最寄りに着いて! そう願う私に訪れたのは救いの手ではなかった。

「わっ」

 車体が大きく揺れる。隣にいたサラリーマンの体が当たって、手すりに掴まっていなかったせいで、私の体のバランスが崩れた。やばい、誰かの足踏んじゃいそう。頼りない足下だったけれど、そうならずに済んだのは孤爪くんが私の体を支えてくれたからだった。それを理解したのは孤爪くんの手の感覚が腰に回っていたことを理解してからのことだったけど。

「え……」
「……大丈夫?」
「う、うん」

 私の腰に回っていた孤爪くんの手が離される。あれ、え? 私、今孤爪くんに支えられたってこと? 揺れがあったのにも関わらず、車内にいる人々は平然としている。これが日常で、当たり前だから。けれど私はその正反対にいて、心臓だけはまだ大きく揺れていて、動揺が顔に出てしまいませんようにと祈ることだけが精一杯だった。腰に手を回されるなんて、誰が想像していただろうか。初デートでこれってハードル高すぎじゃない? それとも私が経験不足過ぎるのだろうか。

「こっち、壁だから」
「は、はい」

 孤爪くんに促されて場所を交代する。一安心して壁に体重を預けると、顔の横に孤爪くんの手が置かれた。いや、わかってる。この体勢が孤爪くんの体を支えることになるって。その手は必要だって。でもこれ、あれだよね。壁ドンと大差ないよね……? 相変わらず近いし、壁ドンだし、もう私どうしたら良いのかわからないんですけど! 孤爪くんはどうして平然としていられるの? 恥ずかしくないの? 伺うように見上げる。頬を少し染めて気まずそうに私を見る孤爪くんがいた。

「ご、ごめん」

 あ、ダメだ。謝って視線そらしてくる所とか、すごいくる。キュンってなる。今、孤爪くんも私と同じようにドキドキしてるのかなとか、ちょっと気まずいなぁって思ってるのかなとか、でもそれは嫌じゃなくて実はなんだかんだ悪くないかもって思ってるとか、だったら凄く嬉しいんだけど。

「……ダイジョウブ、デス」

 何が大丈夫かなんてわからないし、むしろ大丈夫ではないけれど。なんだろう、これ。漫画かな? ゴンちゃんから借りた少女漫画でこんな感じのシーンあったような気もするんだけど。いざ自分がなると、どうやらダメらしい。思考が追い付かないらしい。

――良いとこ見せて、かっこいいって少しは思ってもらいたいから

 不意に先程、孤爪くんが口にした言葉が浮かぶ。
 もうまともに見つめられないくらいにやられているんですけれど、これ以上かっこよくなっちゃったら私はどうなるんだろうか。どうなっちゃうのかなんて分からないけれど、こんなことを考えているなんて孤爪くんに伝わりませんように。そう願っていた。

(16.06.04)