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「名前」

 震えるような細い声で、孤爪くんが私の名前を呼んだ。裏腹に、真っ直ぐな視線が私に向いている。世界が切り離されたような空間にただ時計の針の音が聞こえて、窓の向こうの雨音なんてもう、違う世界のもののようだ。ただ、私と孤爪くんだけだった。それだけで十分で、それ以外必要ないようにすら思える。
 それでも、心臓の音が、身体を巡る血流が妙にはっきりとわかる。その視線からは逃れることが出来ない。逃れてはいけない。
 同じように、名前を呼んだ。震えるような細い声で。「孤爪くん」とても不思議な魔法の呪文のようにも思えた。
 
「名前で、呼んで」
「……研磨、くん」
「ん」

 満足そうな顔。心臓が何かに鷲掴みされている。想いが溢れてしまいそうだ。ゆっくりと、彼の顔は近づいた。揺れる瞳。綺麗な肌。ツートーンになった髪。研磨くんの匂い。私はぎゅっと強くまぶたを閉じた。唇に何かが触れるであろう期待をただ身体の内側に持ったまま、強く、彼だけのことを想いながらまぶたを閉じた。

――ピピピピピッ!

 けたたましいアラームが鳴り響いて、私は瞼を上げた。天井。タオルケット。パジャマ。

「ゆ、夢……」

 現状を把握する。私、今、孤爪くんとキスする夢見てた。一気に羞恥心が集まってくる。な、なに、私ってばなんて夢見てるの! 影響され過ぎか! 顔に手を当てる。……未遂で目覚めるとか、ほんともう……。孤爪くんがあんなに饒舌なわけ、ないのに。

△  ▼  △



「あ、名前ちゃん久しぶり。研磨いる?」
「お、お久しぶりです。孤爪くんなら今、黒尾先輩に会いに行くって教室出ていきましたよ」
「まじか。入れ違ったか」
「孤爪くんもきっと3年生の教室で同じ事を思ってるんでしょうね」
「孤爪くん、ね」
「……研磨くんも。黒尾先輩もなかなか意地悪ですよね」

 今朝の夢に動揺を悟られることなく過ごしてきたつもりだった。孤爪くんを見ると思わず百面相してしまうのは仕方ないとして、少なくともこんな欲求不満なやつだとはばれていないはずだ。落ち着け、心臓。
 そんな時、ちょうどトイレに向かおうとした私を呼び止めたのは黒尾先輩だった。

「意地悪じゃなくて応援してんの」
「ええ? んー……ありがとうございます」
「不服そうな顔ヤメテ」

 まあいいや。またね、名前ちゃん。そう言って黒尾先輩は踵を返す。たった1年の差しかないというのに、黒尾先輩はやけに大人びて見える。背が高くて体格もしっかりとしているからかな。来年にはもうこの人がこの学校にいないのだと考えると、少し不思議な気分だ。

「クロ」

 ふと考え込む私を現実に引き戻したのは、孤爪くんの声だった、はっと意識を取り戻して声のするほうを見る。

「おー、研磨。戻ってくるの早いな」
「途中で夜久くんに会ったから」
「俺がこっち向かったって聞いた?」
「うん」

 2人の会話が耳に届く。今日は特に孤爪くんの顔、まともに見られないから、それじゃあ、とその場を立ち去ろうとした時、黒尾先輩が言った。

「あ、どうせなら名前ちゃんも来る?」
「え?」
「は?」

 私と孤爪くんの声が重なる。

「今日の部活、ミーティングだけでさ。研磨んち行くんだけど、一緒にどう?」
「えっいや、どうってその……私、邪魔になっちゃいますし、それに孤爪くんも気を使うんじゃないかなあと思うんで……」

 いきなり彼氏の家にお邪魔しますとかそんなハードル高いこと出来ませんって。おうちの人にもどんな風に挨拶していいか分からないし、そもそも心の準備が出来てない! それでも黒尾先輩は続けた。

「研磨は? 名前ちゃんいるの嫌じゃないだろ?」
「……まあ」

 嫌と言われたらそれは普通に傷つくけどね。それでも孤爪くんも、私と同じように困った顔をしている。この中で楽しそうなのは黒尾先輩だけだ。私だって行きたくないわけじゃない。むしろ孤爪くんの部屋がどんなのか気になる。けど、緊張しちゃうだろうし、そもそも2人の約束に私が入ってもいいのだろうか。

「……名字さんが嫌じゃなければ、俺は別に。断る理由は、ないし」
「はーい、じゃあ決定〜」
「えっ」
「俺は少しやることあるから、研磨と先行っててくれたら後で向かうわ」

 あれ、こう言うのって怪我の功名っていうんだっけ? あ、違う? 棚からぼた餅? トントン拍子だけど、本当にいいのか?

「え、や、けど本当に大丈夫なんですか? 私、邪魔じゃないですか? 孤爪くん、無理なくていいんだよ? 私のことは全然気を使わなくても! 孤爪くんの部屋とかは気になるけど、本当、邪魔はしたくなから」
「……いい。大丈夫。邪魔とは思ってない」
「ほら、研磨もこう言ってるから」
「でも……」
「いいから、いいから。とりあえず行くってことで」

 半ば強引に背中を押してくれた黒尾先輩のおかけで、私は孤爪くんのお家にお邪魔することとなったのである。ふと、今朝の夢を鮮明に思い出す。いや何考えてるの、私。黒尾先輩も一緒なのに。それでも、放課後に向かう時計の針にある種の期待を乗せる。夢は鮮明にある。脳裏にこびりつくように。夢の中の孤爪くんの声が再生を繰り返す。だめ、何を考えてるの。恥ずかしさを誤魔化すように唇を噛んだ。

(16.09.25)