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 まじかよ、と黒尾は思った。もしかしたら、とは思っていたがまさかそうなるとは思っていたかったのだ。いや、研磨の性格を考えるとむしろ、そうなるほうが「らしい」と思える。 

「つーかせっく俺が気をきかせてやったのに何もなかったのかよ」

 少し非難する声で黒尾は研磨に言った。あからさまに嫌そうな顔をする研磨は相変わらずである。

「……別に、気をきかせてなんて頼んでないし」
「素直じゃねえな」

 自分が来るまでの間、二人の間で何があったのか気になるところだが、駅であった彼女の様子を見る限り、何か特別な事があったとは思えない。自分ならば、こんな美味しい状況で何もしないなんて考えられないのに。そう黒尾は思う。

「それに、名字さんは困ってたと思う」
「困る?」
「……いつもと比べて様子少し変だったし。だからああいうのは、やめて」
「へーへー。悪かったよ」

 そりゃあ、付き合ったばかりの彼氏の家に遊びに行ってなおかつその家には二人きりで、なんて状況になったらいつも通りでいられないだろう。特にあの子はこう言うことが顔や態度に出やすい節がある。研磨は取り繕ったり隠すのが上手いけれど、あの様子じゃあきっと研磨の気持ちまで考える余裕はなかったんだろう。まあ、相手がどんな気持ちでいたのかを考える余裕がなかったのは研磨も同じだろう。

「けどまあ、まったく……焦れった過ぎて俺は心臓が痒いわ」
「は? なにそれ」
「困るっつーか、期待とかしてたんじゃないの? あの子」
「期待?」

 怪訝そうに見つめてくる研磨に、黒尾はニヤリと口角を上げた。少しくらいからかっているほうが、きっとこの二人には丁度いいのかもしれない。特に研磨は、こうでもしないと実行に移せないだろうから。

「そりゃキスのひとつやふたつ」

 案の定、研磨は眉間に皺を寄せた。
 
「え、なに。ちょっと。クロからそういうこと言われるとゾワッとするんだけど」
「失礼なことを言うなよ」
「それにおれは、別に――」

 研磨の言葉が途中で止まる。別になんだよ? 視線で問う黒尾に、研磨は小さな声で「……なんでもない」と答えた。研磨がどう思っているのか、黒尾としても興味深かったが、これ以上の追求はさすがに気が引けた。互いをよく知る幼馴染として、知ってしまうとむず痒い部分でもあるのだ。

「まあ確かに俺たちが女子みたいに恋バナするのは気持ち悪いわな」

 研磨は黒尾が羨ましかった。行動力も包容力も、多分いまの自分には全然なくて、それで彼女を困らせているかどうかはまだ分からないけれど、足りていないのは明らかだ。別にいいじゃないかとも思う。けど良くないとも思う。

「まあ、ね」

 困ったのは研磨も同じだった。黒尾から連絡が来たとき頭を悩ませた。あの時、黒尾本人がいたら抗議していただろう。ただ彼女は帰らなかった。それが少し意外で、けれど嬉しかった。そして心臓はいつもより早足で何か期待するように動く。決して悟られてはいけない。顔に出してはいけない。そう研磨は自制する。
 彼女はあの時、どう思っていたのだろうか。何を思って家に来たのだろうか。部屋の中で緊張している姿が可愛いと思った。一挙一動に反応している姿に心がくすぐられた。

「けどまあ、なんかあったら言えよ? アドバイスはいつだってしてやるから」

 あの時。帰り際、彼女の顔が一番近くにあったとき、時間が止まった気がした。近くにあった瞳は大きく揺れていて、頬が少し赤らんでいた。大きく心臓が動いた。一瞬、体が無意識に動いて彼女に触れそうになった。けれどそれは本当に一瞬で、すぐに自分を取り戻して平然を装ったのだ。研磨の動揺は名前に悟られることはない。
 キスを、したくないと言えば嘘になる。触れたくないと言えば嘘になる。けれど、彼女を困らせるのは嫌だった。自分の欲望を晒すことには慣れてない。
 ごめん、と研磨は思う。ごめん、名字さん。おれはもしかしたら名字さんが思っているような人間じゃないかもしれない、と。社交性があるわけではないし、自ら外に出るタイプでもないし、四六時中連絡をとってくっついていたいわけでもない。けれど、それでも名字さんのことを考えるとドキドキするし、触れてみたいとも思う。そんな自分が存在することがどうしようもなく恥ずかしいと研磨は感じていた。

(16.10.04)