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 孤爪くんの持つ熱に、私は溶かされそうだ。色めいた瞳に何か期待を隠して、ただ私だけが映る。孤爪くん、とその名前を呼ぶことさえ難しい。それどころか息をすることさえ困難で、私は今までどうやって呼吸をしていたのだろうとさえ思う。

「……名前」

 絞り出したような声で孤爪くんが私の名前を呼ぶ。押し寄せる感情の波が私の思考を崩壊させていくかのようだった。狡い。孤爪くんはやっぱり狡い。涙を流してしまいたくなるような胸の苦しさに、私は抗えない。
 ゆっくりと孤爪くんの腕が上がる。その手は躊躇うように壊れ物を触るように優しく私の頬を触れた。名前を呼ばれた瞬間から嘘のように部屋の空気が変わった。何をするの? なんて無粋な問いかけをしなくたって分かる。私と孤爪くんは今、まったく同じ色と形の感情を抱いているのだろう。

「……け、んまくん」

 ただその名前を呼ぶのが精一杯だった。多分もう、なにも言葉に出来ない。心臓は押し潰されるんじゃないかってくらいに正常ではない。ゆっくり、ゆっくりと、距離が近付く。着ているジャージの裾を強く握った。そうでもしないと、緊張でおかしくなってしまいそうだった。
 瞬間、テーブルに置いてあった孤爪くんのスマホが震える。私は少し、本当に少しだけ冷静を取り戻した。

「……あのスマホ」
「うん」

 それでも孤爪くんは私だけを見ていた。

「いい、の?」
「いい」

 いつのまにかスマホの震えは止まっていた。静寂。脳内ではドーパミンが出まくっているのだろう。ああ、もう。何も考えられない。孤爪くんだけ。今、私を支配してるのは孤爪くんだけだ。近付く距離に比例して、私の瞼は閉じられていく。互いの息がかかるような距離。頭は真っ白。唇が触れる前に私はぎゅっと強く瞼を閉じた。多分、残りの距離は数センチだっただろう。その時だった。

「研磨ァ!」

 ドタドタと階段を駆け昇る音が聞こえたかと思うと、勢いよく扉が開く。孤爪くんの名前を呼ぶと共に居たのは私と同じジャージに身を包んだ黒尾先輩だった。

「……クロ……」
「えっ名前ちゃん!?」
「お、お邪魔しております……!」

 ドアの勢いと同じくらいの勢いで離れた私たちは、不自然な状態だっただろう。顔に熱が集まる。やばい、孤爪くんの顔も黒尾先輩の顔もまともに見られない。っていうか誰にも私を見られたくない。心臓はまだ足早に動く。恥ずかしい。全部が恥ずかしい。雰囲気に飲まれていたことも。さっきまで熱を持っていた孤爪くんの瞳も。期待していた私の心も。全部、全部。

「ま、まじか。なんか悪ィ」
「いえ、その、あの、全然、えっと、お気になさらず」

 何かを察した黒尾先輩は決まりが悪い顔をしながら言う。確かに黒尾先輩の登場は心臓には悪かったけれども。はっ! いや、待て。恥ずかしがって照れる前に弁解しないと誤解されるのではないだろうか。だって私は今孤爪くんのジャージを着ているわけだし。何やってるんだコイツらってなるよね。

「あ、あの、私近くで用事があったんですけど、さっきの雨に濡れちゃって、それで孤爪くんが声かけてくれて、服乾かしてもらってて、それで今この格好で、その……」
「……名字さんの服、そろそろ乾燥終わってないかどうか見てくる」
「えっあっうん、ありがとう……」

 孤爪くんは私とは反対で、至って冷静だった。さっきまであんなに近かったのが嘘みたいに平然としてて、少し驚く。孤爪くんが部屋を出ると私と黒尾先輩だけになって、ますます気まずいと思ってしまった。

「連絡すればよかったんだろうけど、いや、まさか名前ちゃんがいるとは思わなくて」
「い、いえ私もまさか今日自分がここに来るとは思ってなかったんで……」

 出来れば黒尾先輩には感じ取った何かを今すぐに忘れて欲しいけれど。

『服、乾いてたから降りてきてもらえると助かる』

 孤爪くんからの連絡がくる。黒尾先輩にその旨を伝えて、私は鞄を持って部屋を出た。着替えたら帰ろう。私に必要なのは冷静になれる時間だ。

「脱衣場で着替えて大丈夫だから」
「うん、わかった」
「ソファに座ってるから着替えたら声かけて」
「黒尾先輩が上に一人だけどいいの?」
「クロのことはいい」
「そ、そっか」

 手渡された服を持って脱衣場へ行く。借りていたジャージから本来の私の服へと着替える。ようやく落ち着ける装備が手に入った気がした。

「孤爪くん」
「終わった?」
「うん。これ、ジャージとTシャツ。ありがとう。……じゃあ私、帰るね。今度改めてちゃんとお礼するから」
「いいよ。お互いさまなんだし」
「確かに。これでおあいこだね」

 私も普通に笑えるようになって笑顔をつくる。さっきの時間の振り返りは家に着いてからじっくりすることにしよう。そうしよう。それでも体に残る熱がふわふわと夢見心地にさせる。

「駅まで送る」
「黒尾先輩いるし大丈夫だよ。雨もあがったし」
「……わかった」

 靴だけはまだ湿っていた。少し気持ち悪いなぁと思いながらも足を入れる。

「それじゃあ、またね」
「名字さん」
「え?」
「……ごめん」

 うつむき加減に孤爪くんが言う。そのごめんはどれに対してだろう。わからなかったけれど、私は「ううん」と首を横に振った。孤爪くんの視線が一瞬だけ、私の唇に移った気がした。私はまたざわざわと心臓が声をあげている事に気がつく。ごめんの理由は、聞かない方が良い気がした。

「夜、連絡する」
「う、ん」
「じゃあ、送れなくて悪いけど」
「全然! 全然、です」
「またね」
「うん。またね」

 ドアノブに手をかける。

「……あと」
「え?」
「来てくれて、ありがとう」
「……うん」

 お礼を言うのは私の方なのに。でも今何かを言葉にしても上手く言えないような気がして、私はただ返事をするだけだった。また恥ずかしさが集まってきて、まともに孤爪くんの顔も見られないまま家を出る。
 あの時。もし黒尾先輩がやってこなかったら。私と孤爪くんの距離はゼロになっていたんだ。惜しい、なんてことを思いながら孤爪くんが至近距離にいた瞬間を思い出す。一番、近くにいた。これまでで一番の近く。あの瞬間を思い出すだけで、心臓が痛いくらいに締め付けられる。

(16.10.30)