xx


 あの胸の高揚を1度覚えてしまうと、もう元には戻れないだろう。孤爪研磨は、名字名前に貸していた服を見つめ、言い様のない感情に見舞われた。赤いジャージ。いつも自分が着用しているそれ。なのに、彼女に貸した途端、それがいつものものではなくなった気がした。

「研磨? 名前ちゃん、帰ったのか?」
「うん」
「……なんつーか、本当に悪かったな」
「……別に」

 多分。いや、絶対。あの時、黒尾が来なかったら触れてたと思う。無邪気な彼女の言動に、衝動が背中を押した。絞り出すように名前を呼んだら、彼女の瞳が震えた。恥ずかしさや熱情を押さえきれない様子に研磨の気持ちが昂ったことは確かである。
 触れたかった。そう言うのが正解だろう。そう言う欲望は他人と比べ低い方だと研磨は思う。思うが、名前と居るとどうにも様子が少し違うのだ。それがなんとなく落ち着かなくて、研磨自身も困る。けど、悪くない。

「今日ほど研磨の家に来たのを後悔した日はねぇわ……」
「だから、もう良いって。ていうか忘れて、全部」

 忘れて、そして触れないでいてくれるのが自分にとっての正しい処置であると研磨は思った。そんな研磨の思いを汲み取ったのか、黒尾はその事についてそれから触れる事はなかった。結果的に邪魔をしてしまったことにはなるが、二人がそれなりに恋人らしくなってきたのを黒尾はやはり嬉しいと思うのだ。同時に失態による汚名返上は必ずしてやろうと誓うのである。


△  ▼  △


 しかし人生とは不思議なもので、何か良いことがあると悪いことが起こるように出来ているらしい。それは逆も然りなのだが、この日の研磨は悲しいかな、前者だったのである。
 6限目の体育の時間のため、研磨は体育館に向かう廊下を歩いていた。そう、結果的に言うならタイミングが悪かった。1度教室に戻ったことも、名前の声が聞こえて立ち止まったことも、そして、電車の中で恋愛トークをする女子高生の隣に座ってしまったことも。全部、全部、タイミングと巡り合わせが悪かっただけなのだ。
 名前が男子生徒とぶつかった瞬間「あっ」と研磨の口から小さく声がこぼれた。市野の顔は研磨の位置からは見えなかったけれど、名前の表情はよく覚えている。ただ見ていることしかできなかった。市野がその体を受け止めたのも、その頬に唇当たったことも。

「……大丈夫か?」
「ごめん、大丈夫……」
「ま、まあ今のは事故だし気にするなよ。むしろ忘れ――」

 二人の会話を耳にしながら、ただ視線を向ける。ああ、今のは――。考えて、止めた。これは多分考えるのは良くない。そう思うのに頭は先ほどの情景を色濃く残している、

「こ、孤爪、今のは」

 市野が研磨の存在に気付き、顔を青くする。やばい、見つかる前に隠れれば良かった。研磨は後悔した。しかし今更逃げるわけにも隠れるわけにもいかなくてどうにか口を開いた。誤魔化すように、隠すように。

「……名字さん、大丈夫? 勢いよくぶつかってたけど」
「へ、平気、です」
「なら、良かった」

 研磨が名前の思いに気付くことはない。いつも通りに。そう頭で繰り返す。

「体育、遅れるよ」
「……いま、いく。急ぐ。……ごめん、市野」
「お、おう」

 それでも、名前の顔だけは見られなかった。そして自分の顔も見られたくなかった。怒りとは違う感情。やるせなさにも似ているかもしれない。諦めや、劣等感だとか。名前が困っているだろうとこは研磨も気がついていた。自分からのフォローが必要な場面であることも理解していた。ただ、それが出来なかった。何か余計な感情が邪魔をしていた。
 だからその日は、残り少ないその日の学校生活の間は研磨は名前と話すことも、その方向に視線を向けることもしなかった。
 部活の後、帰りの電車に揺られる頃、研磨は己の行動を悔いた。やはりここはきちんと自分から謝ろう。きっと彼女は気を病んでる。全く気にしない訳ではないけれどあれは事故だ。ただのハプニング。そこに気持ちはない。研磨が前向きになりかけた時、隣に座る女子高生たちが「ってかさぁ」と気だるそうに話を始めた。

「ってかさぁ、彼氏にするならリードしてくれてマメな人の方が良いわ」
「今の彼氏となんかあった?」
「この間、どっか出掛けるって話になったんだけど、計画から予約まで全部あたしなの。てかもう何するでもあたしから!」
「げ。マジ?」
「あいつアプリのゲームにはまっててそればっかりなんだよ。まじムカつく。ゲームの何がそんなにいいわけ? もっとあたしとのことに時間つくれよ! てか、もうこいつとは別れようかなってときにたまたま昨日先輩に会ってさ」
「あー、サッカー部の?」
「そー! 相変わらずイケメンだし、優しいし、背も高いし、頭も良いし。外で相談聞いてもらってたんだけど、寒いねって言って温かいココア買ってくれたんだよー!」
「えっやばーい!」
「やばいよね! しかも『俺でよかったらいつでも話聞くよ?』って! その時の笑顔がね素敵すぎて死ぬかと思った。今の彼氏とは大違い。もうね、先輩と付き合いたい。ってか今のやつとは別れて先輩と付き合う。頑張る」

 その会話を一通り聞き終わる頃には、右肩上がりだった研磨のポテンシャルは急下降し、最終的に意気消沈となった。今の会話はぐさりと刺さるものが多すぎる。自分だってゲームが好きだ。時間だって、バレーのこともあり作れているとは言いがたい。リードもしてないし、マメなほうでもない。名前の活発さや優しさに甘えているところも正直、ある。けど市野なら。市野なら、違うだろう。サッカー部の人気者で顔も良くて人柄も良い。背だって自分より高い。勉強は苦手らしいけれど、むしろ幼馴染という近い距離にいて好きにならないほうがおかしいのではないだろうか。市野のほうが名前のことをきっとよく知っている。それが世の中の女子高生の総意ではないと分かっている。が、普通に考えて自分みたいなつまらない人間より市野のほうがずっと良いだろう。そう。市野なら、市野のほうが――。

「研磨?」
「えっ?」
「どーした? 降りるぞー」
「……うん、ごめん」

 考えすぎた。黒尾の後ろについて慌てて電車を降りた。昼間の光景が甦る。自分がいなくても、あの二人なら恋になる。物語が出来る。主人公とヒロイン。ゲームの中でも良くある。幼馴染の関係で困難を乗り越えて恋人になる。そういうRPGをつい最近やった。自分はモブキャラだ。物語に必要な途中のコマ。
 研磨は自分に自信がない。女性関係におけるそれに至っては余計である。名前と付き合って多少の変化はあったが、しかしそう考える方が楽なのだ、少なくとも名前のことについては、研磨が自分で考えるよりも気持ちを左右する影響するが大きいのである。だから、あの瞬間のこともそうだ。研磨の気が付かないところで、ずっとずっと研磨の気持ちに影響を与えているのだ。
 研磨はその日から名前を避ける行動をとるようになった。自身でも良くないと分かりながらも、つい名前から逃げてしまう。人の視線を避けるのと同じように。それはいつしか引っ込みがつかなくなってしまって、もうどうしたら以前のようになるのか研磨には分からなくなってしまった。ごめん。ごめん、名字さん。心の中で何度も謝る。けれどそれは届かない。研磨が声に出さぬ限り届かないのだ。

(16.11.06)