32


 私が部室に入ったとき、孤爪くんはたいそう驚いた顔をしていた。ごくり、と唾の飲み込み方も忘れた私の喉がなる。汗ばむ手で部室のドアを閉めると、本当に2人っきりの空間になってしまって余計に緊張が増した。
 孤爪くんは気まずそうに視線をそらしている。私はその様子をじっと見つめて、言葉を探していた。何をどんな風に伝えたら届くのだろう。

「……こっ! ……け、研磨くん!」

 思っていたよりも大きくなった声に私も驚いた。孤爪くんはビクリと体を反応させて驚いた顔のまま私を見た。それはすぐにまたそらされ、躊躇いがちに私を見るだけだった。いろんなものが私を刺激して感情が昂って泣いてしまいそうだった。

「あの、その……」
「……なんで、ここに」
「黒尾先輩が心配してくれて」

 何を伝えたら良いか。どう伝えたら良いか。いくら考えてもわからない。それでも孤爪くんから視線をそらすことは嫌だった。たとえ孤爪くんが私のほうをみようとはしなくても、私だけはそらしていたくなかった。

「あのっ! ……ごめんなさいっ!」

 いつもよりも苦しそうな私の声が謝罪の言葉を紡ぐ。頭を下げて、視界に入るのは孤爪くんの靴だけだ。また、驚いたかな。それとも慌ててるのかな。ごめんなさい、と蚊の鳴くような声でもう1度伝えた。

「私、研磨くんに嫌な思いさせて、フォローも出来なくて、それで――」

 ぎゅっと強くまぶたを閉じる。考えるよりも言葉が先に出てくる。ああもうこれは勢いに任せて気持ちを伝えるしかないと覚悟を決めた時、私の言葉は遮られた。

「名字さん、待って」
「え?」
「……謝るのは、おれのほう」

 驚いて顔を上げた。まだ少し躊躇いがちに、けれど今度は私のほうを見てくれている孤爪くんがいた。言葉を探す様子の孤爪くんを見つめながら私は待つ。期待と不安が入り交じって緊張が増す。

「その……ごめん。気を使わせたこととか、嫌な思いさせたこととか」

 孤爪くんはそこで一呼吸置き、1度大きくて息を吸い込んだ。

「あと、ずっと避けてたこと、とか」

 改めて言葉にされると少し辛い。怖かったけれど、ずっと気になっていたことを孤爪くんに問う。

「……私のこと、嫌になった?」

 泣きそうな声と顔で言うと、孤爪くんは驚きそして焦りを見せた。

「えっ。なんで、そうなるの?」
「だって、研磨くんに嫌われても仕方ないかなってずっと思ってたから」

 うんそうだよ嫌いになったよ、そう言われたらもうきっと立ち直れない。恋なんて一生しない。強く手を握る。唇を噛み締めながら孤爪くんの返事を待った。

「……ない。それは、ない。絶対、ない。……名字さんはいつも一生懸命で、明るくて、優しくて、楽しませようと頑張ってくれて、いろんなことに気を使ってくれて……たまに、危なっかしいところとか、心配になるところもあるけど、それでも最後はいつもなんとかしてくれて。おれはそれに甘えてる。おれはいつも名字さんに頼ってばかり。今回だって、おれは気の利いた言葉も言えなくて、名字さんに、そんな顔させて。……だから、むしろ名字さんのほうがおれのことはもう嫌になっててもおかしくないって思ってる」

 苦しい。やっぱり苦しい。こんなに胸を締め付けて締め付けて仕方ないこの苦しさに、私はやられて死んじゃうのかな。昇華の仕方も分からないこの感情はどうしたらよいのだろう。喜び。安心。だけど、孤爪くんの伝えてくれた言葉の半分くらいは否定してやりたい気分だ。だから私が言える言葉はただひとつ。

「わっ私だって研磨くんのこと嫌いなるなんて絶対にない! 絶対、絶対にない!」

 言葉に出すと同時に、込み上げていた感情が涙となった現れた。ぼろぼろ、そんな形容詞を当てはめてしまいたくなるほど、豪快に私の瞳から涙が溢れてきて止まらない。こんなに泣いたら絶対明日目が腫れるから泣きたくないのに気持ちとは反対にそれは勝手にあふれでる。
 歪む世界に孤爪くんを映す。ここへ来てから一番慌てた様子が見えて私はつい、なんだか面白いなぁと思う。なのに、顔は上手く笑顔を作れなくて孤爪くんの焦りを取り除いて上げることが出来ない。
 孤爪くんは焦りながら私に一歩、一歩と近付いた。縮まる距離。手を伸ばせば触れられる距離に孤爪くんが来てくれたとき私は嬉しくて、嬉しくて仕方がなかった。その気持ちを言葉にすることは出来ないだろう。その時私は思ったのだ。こうやって言葉には出来ない気持ちがある時、それでも相手に伝わって欲しいと願うとき、人はノンバーバルな行動で相手に示すのだろうと。
 私は考えるよりも先に孤爪くんの背中に腕を回した。確かめるように強く。強張ったその身体は見た目よりしっかりしている。息を吸い込むと孤爪くんの香りが鼻腔に広がって、こんな時にこんなことを考えるのはおかしいって分かっているけど幸せだと思った。返すように、私の背中に回る腕はぎこちない。

「……私、研磨くんのこと大好きだから、これからもゆっくり楽しく、一緒に過ごしていきたい」
「うん……。おれも、そう思うよ」
「研磨くん、お誕生日おめでとう。伝えたくてしかたなかった」
「うん。ありがとう」

 頭を撫でられる。涙はようやく止まってくれた。幸せ。幸せだ。ただ、それだけ。ああもう何もいらないや。その幸せを噛み締めながら孤爪くんに身を委ねる。あんなに悩んでいたはずなのに。言葉にするとこんなにも簡単なんだ。けど、言葉にしないとどうやったって伝わらない感情もあるんだ。伝えることの大切さを私は知った気がする。
 しばらくしてからゆっくりと体を剥がされ、そっと顔を上げる。眼前にいる孤爪くんが真摯な瞳で私を映していた。安心から一転、射るような瞳に先程とは違う緊張が走る。雰囲気が変わった事に気付く。けれど私はその独特の雰囲気を知っていた。
 その瞳をそらすことは許されない。何かを口にすることもきっと、許されない。震えのは瞳か心か。心を落ち着かせきられないまま、まぶたをゆっくりと閉じた。きっと触れられる。きっと――。

『えっ、キスですか? キスですよね? ちょ、見えないです! 夜久さん!』
『リエーフうるせえ! 気付かれたらどーすんだよ!』
『黒尾もな』

 気付いちゃいましたよ。出入り口にある影に視線を向ける。っていうかいつから聞いていたの? やっぱり最初から? 覗き見なんて悪趣味! と思うが、部室を貸してくれると打診があった時点で私もこういうことを想定していなかったのが悪かったかもしれない。人の恋路ほど楽しいものはないのだから。

「……あの、研磨くん」
「……ごめん、名字さん」

 つかつかと歩みを進めた孤爪くんは出入り口のドアを開ける。ガラ、と勢いの良い音がすると数名のバレー部員が顔を出した。「よ、よお。一旦は帰ったんだけど、忘れ物取りに来てな。タイミングを見計らってて……」なんて取り繕ったて遅いです。覗いてたのバレバレです。
 恥ずかしいけど、どうしてかな。今は怒る気分にもなれない。それよりも感謝のほうが勝ってる。黒尾先輩がいなかったら私はこうやって孤爪くんと話すことが出来なかったかもしれない。……また邪魔されちゃったことにはちょっとだけ怒りたいけど。

「……よかったな」
「はい。ありがとうございます」

 孤爪くんとバレー部の人が話しているよこでこっそりと黒尾先輩が言う。いまは、良いか。この愛しい喧騒に私が居られるということだけで今は十分だろう。

(16.11.09)