一線を越えるか越えないか


  おもちゃ箱のような6畳の四角い部屋の中は、クーラーが効いていて外の茹だるよな暑さとは裏腹に快適で過ごしやすかった。暑いのも寒いのも嫌いという研磨くんの部屋はいつ訪ねても適温に保たれている。
 そんなことを忘れてしまいそうになるくらい、今、私は身体が火照っているのがわかった。これはきっと、緊張と興奮だ。眼前にいる研磨くんと今にも触れてしまいそうな距離に、私は息を飲む。これがただのキスをする前兆ではないと私にもわかるくらい、つまりこの部屋はそういう雰囲気で満たされていたのだ。

「あ、の」
「⋯⋯なに?」
「ま、まって、私」
「⋯⋯ごめん。それはちょっと無理、かも」

 ほとんど絞り出すような声に、緊張が乗る。瞬きすることにも意識が持っていかれて、外のうるさいセミの声も、時計の秒針も、クーラーの音も、何もかも気にならなかった。私の神経はただ目の前にいる研磨くんだけに集中していた。
 自分から声を出したものの次の言葉が見つからない。本気? と聞くのも違う気がして私はもうこれ以上逃げられない現状に、少し息が荒くなった。研磨くん、と言うはずだった言葉が、彼の唇に遮られる。もう数えることさえしなくなったそれはいつもより幾らか強引な気さえした。
 高校3年の夏、好きな人の部屋で一線を越えようとすることは、はたして褒められたことなのか。それとも誰もが通る道なのか。背徳感と不安と、そして好奇心が入り交じる。普通に勉強をしていただけなのに。それまでは何事もなかったはずなのに。何が研磨くんの衝動を突き動かしたのかもわからないまま、私は宛がわれた唇を受け入れながら少し前の出来事を思い出していた。


◇   ◆   ◇


「あっ、電子辞書忘れちゃった。研磨くんの借りても良い?」
「机の引き出しにあるから勝手にとっていいよ」
「ありがとう」

 健全に受験生らしく勉強をしていた私は、研磨くんの許可を得てから机の引き出しを開けた。一目見て整理されているなぁと思った瞬間、それは目に入ってきた。
 電子辞書の隣に付箋紙や単語帳に紛れるように置かれてあったから一瞬何か分からなかったけれど、私だって高校3年生だし、純情だけで生きていけるわけない、それが何のために存在しているのか知らないほど子供ではなかったのだ。
 そりゃあ勿論、研磨くんが避妊具を持っていることにも驚いたけれど、次に思ったことは『研磨くんてそういう欲求あったの⋯⋯?』だ。とは言え、そんなの正直に聞けるわけないし、ここは見なかったフリをするのが大人のマナーだろうと電子辞書だけを取り出そうとした瞬間、これまでの研磨くんからは想像出来ない速さと勢いで私の隣にやってきた研磨くんが慌てて机の引き出しを閉めた。

「え⋯⋯」
「⋯⋯中、見た?」
「え?」
「その、中、何が入ってる、とか」

 研磨くんは決まりが悪そうに言う。

「ちょ、ちょっとだけ」

 思い描くものは共通の認識で良いのだろうかと考えていると、研磨くんはため息を吐いて観念したように言った。

「クロがこの前無理矢理置いていっただけだから、気にしないで。嫌な思いさせたら、ごめん」

 嫌な思いは全然ないけど。ただ、やっぱり研磨くんもそう言うの興味あるのかなって思うだけ。今までそういう態度もなかったし、研磨くんの様子見てもそう言うの考えられないし、だからやっぱり驚いただけ。

「ちょっと驚いただけ。⋯⋯研磨くんてそういうの、興味なさそうだから」
「⋯⋯ないわけじゃない、けど⋯⋯」
「そ、そーなんだ。へ、へぇ」

 私もそれなりに平然を装うとしているけれど、話題が話題なだけに本当はちょっとどうして良いのか迷っている。

「⋯⋯名字さんの嫌なことはするつもりないから」

 嫌じゃないけど。嫌じゃないけど。嫌じゃないけど。確かに緊張はするけど、だけどいつか、そういうことを誰かとするなら、その相手は研磨くんが良いんだけど。

「嫌じゃないけど」

 それは本当に小さく、呟くように言ったはずなのに、すぐ近くにいる研磨くんに届くには十分だった。「え」とただ一言呟いた研磨くんの言葉は、顔を見なくてもわかるくらいに困惑と驚きに満ちていた。
 えも言われるような雰囲気の漂う間を置いて、研磨くんは私の名前を呼んだ。少し熱の帯びたような瞳を捉える。

「⋯⋯キス、していい?」

 小さく頷いて瞼を閉じる。なにこれ。なにこの雰囲気。こんなキスの始め方を私は知らない。押し当てられた唇はすぐに離れていったけれど、熱っぽい瞳はそのままに、研磨くんは言う。

「名字さんの嫌がることはしたくないし、するつもりもない。多分、そういう欲求はどっちかって言うと、ないほう。けど、名字さんに触れたいとは、思う」

 言い終わって、研磨くんの手のひらが私の頬に伸びてくる。心臓はドキドキが止まらないし、呼吸することだって難しいし、冷静に考えることはもう出来ないし。そうしてようやく絞り出せた言葉は覇気なんてまるでない「あ、の」と言う言葉だった。

 いつもよりも長く宛てられた唇が離れて、ようやく私は空気を吸った。

「嫌なら、もう何もしない」

 研磨くんはどきどき、どうしようもなくずるい。だって私、嫌じゃないもん。そう言われたら嫌じゃないとしか言えないもん。触れたいと思っているのはなにも研磨くんだけじゃないんだよ。

「⋯⋯い、嫌じゃない」
「うん」
「⋯⋯私も研磨くんに触れたい」
「うん」
「し、触れられ、たい、です」
「⋯⋯うん」

 再度、研磨くんの顔が近付く。ちょっと猫背の研磨くんが私に合わせるよう屈んで伸びた髪が私の頬をくすぐる。頬に当てられた手のひらはとても優しい。私と同じくらい研磨くんも緊張しているのだろうか。何をどうするのが正解かも分からないけれど、もう、いいや。怖いとか不安とかよりも研磨くんへの好きが溢れている。
 だから⋯⋯と考える私の耳に届いた音は、冷静と現実を連れてきた。それは研磨くんも同じだったようで、足早にそして次第に大きくなる階段を駆け上がる音に、私たちは慌てて距離をとった。

「研磨ァ。言われてたやつ持って⋯⋯あ。名前ちゃん来てたのね。スマン邪魔した」
「⋯⋯クロ」
「黒尾先輩⋯⋯」

 大学生になって一人暮らしを始めた黒尾先輩は今でもこうやって研磨くんの部屋にやってくるらしい。こんなこと前にもあった気がすると、昔を思い出しながら、先程までの熱が引かない身体はまだ動揺と焦りを保ったままだ。

「そこ置いておいて。それと来るなら連絡して」
「いやまさか名前ちゃんがいるとは思わなくて。本当にスマン」

 黒尾先輩がどこまで雰囲気を読み取ったのか分からないけれど今なら恥ずかしさで死ねそうだ。冷静になると、さっきまでの自分がいかに大胆なことをしていたかと恥ずかしくなる。

「ごめん、名字さん」
「う、ううん。大丈夫」

 机の引き出しに入っている黒尾先輩が置いていったというそれをいつ使う日が来るのか分からない。

「やっぱり俺帰ったほうが良さげ?」
「い、いいです! 大丈夫です! いてください!」
「おれたち勉強してるから邪魔はしないでね」

 けれど、私は多分ずっと研磨くんに翻弄されて生きていくんだろう。それだけは私の確信出来る事。

(18.07.18)