ラッキースケベ
「わっ」
その言葉と共に転びそうになった名前を支えようとした瞬間、研磨の手が名前の胸にしっかりと触れた。手のひらに伝わる感触に、一瞬、どうして自分が手を伸ばしたかということすら忘れてしまいそうになりながらも、名前を抱き止められたことに研磨は安堵する。
「大丈夫……?」
「う、うん。ありがとう研磨くん」
恥ずかしそうにお礼を言う名前に、研磨はじわじわと焦りを覚えた。触れてしまった。偶然とはいえ、助けるつもりだったとはいえ、触れてしまった。許可もなく。こんなの嫌われてもおかしくない。
身体が離れたあとも残る感覚に動揺を隠す事ができないまま、研磨は頭を下げる。
「……ごめん、名字さん、おれのこと殴って」
「えっ殴らないよ!?」
「いや、でも……その……胸」
「あれは、そんな全然。私もなんかごめんっていうか……」
向かい合って、困りながら恥ずかしそうに笑う名前を見て研磨は安堵した。もっと怒るかと思った。いや、怒ってくれた方が良かったかも。と先ほどの感触を思い出しながら考える。
「名字さんが謝る理由はどこにもないし……」
「それを言うなら研磨くんだって」
本当に気にしてないからと言う名前に、研磨は忘れるのがマナーなんじゃないかと己に言い聞かせた。こんな俗っぽいことを考えるなんて思いもしなかったけれど、自分の為にもこの煩悩は早急に打ち消したほうが良い。
「あ、あれか。ラッキースケベか」
閃いたように言う名前の言葉に、研磨は瞬きを繰り返す。
「ラッキー……スケベ……」
ギャルゲーはやらないけど、つまりそれって、ギャルゲーとかに出てくるようなアレなわけで。ゲームは正解の選択肢があるけど、現実は選択肢なんてなくて。
「いや研磨くん的には全然ラッキーじゃないよね……ちょっと図々しいか」
ラッキーだと思うけど。思ったことは口に出さずに飲み込んだ。
「名字さん、怒ってない?」
「怒る? どうして?」
「いや……なんでもない」
「むしろなんか笑っちゃう」
小さく肩を揺らして笑う名前に安堵する。良かった。名前が名前で。ギャルゲーだったら多分、不正解しか選べない。いや、良くはないんだけど。
「本当にごめん」
「んーん! 私こそ助けてくれてありがとう」
「次はもっと……スマートに助けられるように、する」
「私も次は転ばないように気をつけるね」
「転んだ女子支えて……む、むむ胸に、手があたるってマジであるんですか?」
部活終わり、部室で山本がそう黒尾に訊ねているのを聞いて、研磨はさっと血の気が引いた。
「は? どうした山本いきなり」
「いや、昨日のドラマにそういうシチュエーションがあって妹が、好きな人以外は最悪って言ってたんで、気をつけないとと思って」
山本の言葉に黒尾も、そして夜久までも肩を震わせて笑っていたけれど、研磨はそれどころではなかった。自分はかろうじて彼氏という立場だけど、タイムリーすぎる内容に研磨はどこか居心地の悪さを感じる。
忘れるのがマナーだと思ったのに、あの出来事は、あの瞬間の伝わった感覚は簡単には消えてくれない。ふとした瞬間、あの日のことを思い出しては研磨を悩ませる種になっていた。だから余計に山本の持ち出した話題は研磨にとって簡単にスルー出来るものでもない。
いまもまた、ほら。恥ずかしそうに笑う名前とあの感覚を思い出して、己の煩悩に研磨は頭を抱えた。最悪だ。やっぱり殴られたほうがよかった。
「そんな偶然ないから安心しなさいよ」
「そもそも山本が女子のそばにいる時ねえじゃん」
「いやそれはわかんないじゃないすか! 向こうからぐっと! がっと! 転んでくるかもしんないんで!」
「どんな状況だよ」
そんな中、着替えを中途半端にしたままスマホを触る研磨に、黒尾がそっと声をかけた。確かに研磨はスキあらばゲームをしているけれど、着替えを放棄してまでそうすることは珍しいと、黒尾は疑問に思う。
「そんで研磨は何をそんなに熱心にスマホいじってんの?」
「……煩悩の消し方調べてる」
「……は?」
げんなりとした顔でそう言った研磨の真相は、黒尾にはわからぬままだった。
(21.01.23 / 60万打企画リクエスト)