08


「あ……名字さん、おはよう」

 登校して最初に声をかけられた相手は孤爪くんだった。いつもは私の方からおはようと声をかけていたのに今日はいったいどうしたというんだ。驚いて返事をするのを忘れていた私は孤爪くんの訝しげな表情をみて慌てて、「お、おはよう!」と返事をした。

「傘、後ろのとこに置いたんだけど」
「あ、昨日のね」

 後ろに視線を向けると、コートかけのところに私の傘が置かれてあった。

「助かったから、ありがとう」
「う、うん。気にしないで」

 その後すぐにホームルーム開始の鐘が鳴り、会話が終わる。先生の話を聞きながら黒板の方を見ると、本日の日直の欄に私と孤爪くんの名前が並んでいた。そうか、昨日は前の席のペアだったから今日は私たちの番か、と今になって思い出した。日直になるのは2度目だけど、前は孤爪くん日誌書いてくれてたし、今回は私が書いたほうがいいよね、と思いながら孤爪くんに話しかける。

「一巡するの早いなぁ。日誌もらってくるね」
「どうも……」

 ホームルームが終わり、先生から日誌を受けとる。私が受け取ったし、まあ一人でも出来るし、と思いとりあえず記入できるところは記入してしまおうとペンを走らせていると横で孤爪くんがじいっと視線を寄越す。ど、どうしよう。日誌二人で一緒に書くことも出来ないしな。日直の仕事は黒板消しもあるから、上の部分はお願いします、と孤爪くんに伝える。

「黒板の上、私だと届かないことあるから、孤爪くん消してもらっていい?」
「わかった」
「あと、とりあえず日誌、私の机の中に入れておくから何かあったら勝手に取っていっていいからね」

 まあ、わざわざ日誌で特記することもないだろうけど。孤爪くんを一瞥して、現国の教科書を取り出した。朝一でこれは眠くなりそう。数学でも英語でもきっと眠くなっちゃうんだろうけどね。
 チャイムが鳴って教室に先生が入ると、前置きも無しに教科書を開けとのお言葉がとんだ。ああ、今日はがっつり授業やるやつだな、と理解する。そうだよね、前の時間は先生の青春時代のお話で半分くらい吹き飛んじゃったもんね、今日はがっつりだよね。諦めた私は指定されたページを開く。夏目漱石。こころ。

「よし、じゃあこの間の続きからなー」

 先生が授業を進める。耳に入ってくる内容を受け流しながらノートをとっていると、今日の日直、という理由で急にあてられた。そんないきなりはやめてよ先生。と思いながら私は慌てて教科書に目を走らせる。

「えっ、えっと……『香をかぎ得るのは、香を焚き出した瞬間に限るごとく、酒を味わうのは、酒を飲み始めた刹那にあるごとく、恋の衝動にもこういう際どい一点が、時間の上に存在しているとしか思われないのです。』……です」
「そうだな。その一文だ」

 ほっと胸を撫で下ろした。先生はそのまま次の人を指名したけれど、私は自分が口にしたその文をじっと見つめていた。『恋の衝動にもこういう際どい一点が、時間の上に存在している』その文だけが私にとっては光を放っているというか、頭にパチリとはまってきたピースのような、なんとも形容しがたい感覚で私の身体の中をぐるぐると回っていた。夏目漱石みたいにもっと語彙力があったら上手に表現することが出来たのだろうか。
 恋に落ちるとは、そうか、そんなものか。頭の中の夏目漱石が私に恋とはなんたるかを語りかけてくる。「先生」も「K」も「お嬢さん」も私には知ったこっちゃないけれど、その一文だけは夏目漱石が私に、はははと笑いながら恋とはそんなものだ、と教えてくれているような気がした。
 だけど一つ、平成を生きる現役女子高生として言うならば、恋とは罪悪ではないです。多分恋はハッピーです。まあ、際どい一点に出会ってない私が偉そうに言えるわけでもないけれど。

(15.10.14)