結婚生活


 左手を広げて目の前に突き出す。薬指にあるプラチナの、とてもシンプルな指輪を目にすると私はいつも妙に心がくずぐったくなる。「あ、私、研磨くんと家族になったんだなあ」とその度に思って、籍を入れてからしばらく経つけれど、やはりまだ妻というものが何たるかは分からない。
 それでも学生時代からずっと研磨くんだけだったから、家族になれたことにはしっくりくるというか、自分の隣に並ぶ人はこの人以外考えられないなあと思う。互いの性格が幸いしてケンカらしいケンカもしたことはないけれど、これからはそういうのもあったりするのかなと思うとまあそれもそれで悪くはないのかもしれないと思う。

「今日、どうする?」

 寝起きの声のまま、研磨くんが私に訊ねる。外に跳ねた寝癖が可愛いな、と思ったけれど口にはしなかった。

「どうしようか。出掛ける? 家でごろごろする?」
「家でごろごろなら、俺はゲームするけどいいの?」

 少しつり目の研磨くんの瞳に私が映る。窓の外は気持ち良いほどの青空が広がっている。自分で言ったくせに、外の様子を見るとそれもそれでなんだか勿体無いなあと思ってしまった。それを見透かしたのか、研磨くんは「この前名前が欲しいって言ってたスニーカー買いに行ったほうがいいんじゃない」と言った。

「え?」
「売り切れたら面倒だし」

 大きめのあくびをした研磨くんの目尻に涙が溜まる。研磨くんは、私にとても優しい。直接的ではないけれど、口数が多い方とは言えないけれど、私の心に真っ直ぐに届く優しさをくれる。それが昔からとても好きで、この人となら穏やかな人生を歩んでいけるんだろうなと思えたのだ。だから研磨くんがプロポーズの時に言ってくれた言葉は、違和感のないくらいすっきりと私の心に収まった。

「じゃあ、出掛ける準備しなくちゃだね」

 左手薬指の指輪に、まだ私は意識が持っていかれる。「在る」ということを意識させられる。結婚して、何が変わっただろうか。私の名字。二人の住む家。選ぶ家電が大きくなった。親戚付き合い。お金の管理の仕方。色々あるけれど、本質はなにも変わらないままだ。もしかしたらずっと、学生時代から何も変わっていないかもしれない。

「研磨くん、寝癖ついてるからね」
「……うん」

 研磨くんはどうして私と結婚しようと思ったの、という質問をまだ聞けないでいる。別に胸がときめくような返事がほしいわけではない。もしかしたら、ここまで長く付き合いが続くともう結婚するしかないのかなと思ったのかもしれない。ただなんとなく、普段はそう言うことを口にしない研磨くんからそう言うことを聞きたい私の個人的な願望なんだけど。
 毎日ドキドキして過ごしたいわけではないけれど、毎日胸が落ち着いて温かくなるようなしっとりとした気持ちで過ごしたい。私が笑顔で過ごせる日常を作り出してくれるのは、もうこの人しかいないのだろう。
 朝ごはんの乗っていた食器を下げると、研磨くんは洗面所へ向かっていった。蛇口から流れる水道水の行方を目で追いながら私はただ、そんな事をぼんやりと考えていた。

「ねえ、俺の新しく買った歯ブラシどこ?」
「えっ。ああ、えっと、洗面台の戸棚の中。右の方の」
「わかった」

 水を止めて洗面所を覗いた。言った通りに戸棚の中を探す研磨くんは私の方を見ると「なにかあった?」と口にする。

「あのさ」

 何でこのタイミングになったのかは、自分でもよくわからなかった。

「研磨くんてさ、何で私にプロポーズしようと思ったの?」

 新しい、まだパッケージに入ったままの歯ブラシを持った研磨くんが、私の言葉の意味を理解出来ないと言いたげな顔で見ている。
 そのまま言葉の通りなんだけど。そう思うのに、私も私でタイミングの悪さに居心地が悪くなって「いや、別に言いたくないなら全然、聞き流してくれれば」と早口で伝える。

「……普通に名前以外、考えられないないでしょ」
「え?」
「それ聞くために洗面所来たの?」
「う、うん。そう、なの、かな?」

 新しい歯ブラシに歯磨き粉をつけた研磨くんはもう私のほうを見ていなかった。

「……名前だってそうでしょ」
「私?」
「名前も俺以外は考えられないでしょ」

 研磨くんはたまに、予想もしないくらい自信に満ちた回答をぶつけてくる。いや、本人にしたら当たり前の事だから自信もなにもないかもしれない。けど、死角からやってくる予想外の研磨くんの言葉はその度に、私の次の言葉をさらっていって、うんそうです。としか思えなくなるのだ。
 左手の薬指を見た。うん、そう。私も研磨くん以外の人は考えられない。この先大きなケンカをしたとしても、価値観の違いが出てきたとしても、多分研磨くんを嫌いになる日はやってこない。

「……一回しか言わないから」
「え?」
「……家に帰ってきたとき名前が言ってくれるおかえりって言葉は結構嬉しいし、一生懸命作ってくれるご飯も美味しくて楽しみだし、俺は結婚して良かったなって思ってるけど。……ずっと付き合ってきたから結婚してもそんなに変わらないかなって思ってたけど、家族になるのって悪くないなって思えるのは名前だからなんだと思ってる」
「……え、もっもう一回! 録音したいです!」
「ダメ。やだ。一回しか言わないからって言った」

 結婚式のとき、神様に誓った。病めるときも健やかなるときもって。死が二人を別つまでって。その時の誓いが不意に脳裏を過る。私がしわしわのお婆ちゃんになっても隣に居てくれるのはやっぱり彼しかいないだろう。

「ほら、名前も準備しないと出掛けられない」
「……はーい」

 研磨くんが微笑む。つられるように私も微笑んだ。きっと私たちはこれからもこうやって一緒に歩んでいくんだろう。そしてゆっくりと家族になっていくのだろう。結婚指輪は二人の薬指を静かに繋いでいる。

(16.08.19)