孤爪さん


「名前食べたいものある?」
「お米が食べたいなあ。あ、でも研磨くんがお米気分じゃなかったら他のでも大丈夫」

 入籍してから初めての休日、新しい家電や家具をリサーチするため大きい駅までやってきた。並ぶ駅ビルを練り歩いて、あれとかこれとか欲しいねなんて話をして、ちょっと疲れたしお昼の時間だからと休憩も兼ねてお昼ご飯を食べるためにお店を決める。

「いいよ。じゃあ近くにある定食屋でも入ろ」
「ありがと」

 入籍する前から研磨くんの家にはちょくちょく遊びに行っていたけれどちゃんと一緒に暮らすようになったのは入籍の直前だ。
 元々研磨くんの家にある家具家電は大きくて、突然1人が2人に変わっても問題はなかったし、そのまま買い足しや買い換えをしなくても良かったんだけど家にいることが多い研磨くんを休みの日くらいはと半ば強引に引っ張り出した結果だった。

「ちょうどお昼の時間だから並んでるね」
「仕方ないから名前だけ書いておく」
「ありがと〜」

 駅ビルの中ということもあって、和食洋食問わず飲食店は軒並み行列だった。悩めば悩むだけご飯が遠退いてしまうと、メニューが美味しそうな和食のお店に決めれば研磨くんが入り口にある紙に名前を書いてくれる。
 1組、また1組とゆっくり待機の列は減っていって、多分そろそろ私たちの名前が呼ばれてもおかしくない頃合い。

「2名様でお待ちの孤爪様いらっしゃいますか」

 魚にするか肉にするか迷っている私に、立ち上がった研磨くんが話しかけた。

「孤爪さん」
「え?」
「呼ばれてるよ、孤爪さん」
「ん? え⋯⋯あ! そっか! 私も孤爪さんだった⋯⋯!」
「うん。孤爪さんだよ」
「ついうっかり忘れてた⋯⋯」

 そう言って研磨くんはちょっと意地悪な笑みを浮かべる。研磨くんの後ろに続いて店内に入りながら、私は孤爪私は孤爪と心の中で繰り返す。案内された席に座り、目の前にいる研磨くんに視線を向けると心なしか口角が上がっている気がした。

「なんか⋯⋯研磨くん楽しそう?」
「そう? 普通だと思うけど」
「私はわかるよ。もう研磨くんのことは手に取るようにわかる。なんか良いことあった?」
「ふうん⋯⋯じゃあ俺がいま考えてること当ててみてよ」
「いいよ。んー⋯⋯なに食べようかな。あれ美味しそうだな。でも名前も頼みそうだから俺は違うのにしておこうかなって考えてる」
「ハズレ。全然違う。わかってないじゃん」
「えっ違うか⋯⋯絶対そうだと思ったのにな。答えは?」
「答え? 秘密」
「秘密なの!?」
「ほら早く選んで」

 そう促す研磨くんは頬杖をついて私を見つめている。絶対になんか良いことあった感じの顔付きなんだけどな。ゲームのガチャの結果が良かったとか? メニューを見ながら研磨くんのご機嫌の様子を考えるけれど答えは見つからないままだった。

 その日の夜、時間も深夜を越えて私が研磨くんの近くで船を漕いでいると、仕事を終えたらしい研磨くんが私の方を見て言う。
 
「そろそろ寝ようか、コヅメさん」
「⋯⋯え!」
「名前、孤爪さんでしょ?」
「そうだけどー⋯⋯」

 ちょっと眠気が覚めて昼間のことを思い出す。だって職場で旧姓を使っているから自分が孤爪さんになった実感が出ないんだよ。あと半月、いや1ヶ月もすればすぐに反応出来るようになるはず。とボソボソとこぼすように言うと研磨くんは「うん」「そっか」と耳を傾けてくれる。
 寝室にあるダブルベッドに潜り込んで研磨くんのほうに身体を向ける。ふかふかの毛布に包まれて、隣には研磨くんがいて。これがずっと続いていくんだなって思うとそれはもう幸せとしか言いようがない。

「まあ、でもややこしいのはわかるよ。手続きとか大変そうだったし」
「区役所の待ち時間が本当に長かった⋯⋯寝そうだった⋯⋯」
「俺の名字選択してくれてありがと。でももう孤爪さんだから、はやくなれてね」
「はあい⋯⋯」
「おやすみ、名前」
「おやすみ研磨くん」

 電気を消して目蓋を閉じる。夢は見ても見なくてもいい。起きた時に隣に研磨くんがいてくれれば、怖い夢でもいいやって思えるから。

 でも、その翌日以降。

「今日は遅いの? コヅメさん」
「⋯⋯ちょっと遅いです」

 研磨くんは時々そうやって私をからかうようになった。

「おはよ、コヅメさん」
「おはよう⋯⋯」

 もう馴れたよ! と言おうにも研磨くんは楽しそうだし。しかも私も私でその笑い方かっこいいから結構好きだし。
 
「研磨くんちょっと意地悪⋯⋯」
「そう?」
「そうだよ〜」
「だって名前面白いし」
「面白くないよ!」
「じゃあ⋯⋯かわいいし?」
「かっ⋯⋯かわ!」

 あ、これ研磨くんの手のひらで転がされてる⋯⋯ってわかるのに私は対応できない。東京郊外に建つ一軒家のリビングにて私と研磨くんの世界が構築される。
 でもそうやって口角をあげる研磨くんの瞳に優しさや愛しさが宿っているのを私はもう、ちゃんと知っている。

「ごめん、からかいすぎた」
「ううん。いいよ、大丈夫」

 孤爪名前。その名前が定着するまできっとあと少し。

(20.11.21)