お節介なオランジェット

 パリ市内を流れるセーヌ川沿いの道を歩いているせいもあるかもしれないけれど、日中と比べずいぶんと冷え込む外気に身震いするしかなかった。冬を目前に控えた寒さと格闘する私とは対照的に、天童さんは平然とした様子だ。

「ホテルどこらへんなんだっけ?」
「オペラ地区のほうです」
「良いエリア選んだね」
「会社からの宿泊手当の関係でギリギリ3つ星って感じのホテルなんですけどね」

 高級ホテルに泊まるのは夢のまた夢。でも一人で夜を過ごす分には申し分ないホテルだ。オペラ地区——つまり、オペラ座がある地区。観光地の範囲内にあるためそれほど物騒な様子はうかがえない。

「ちょっと遠回りだけどセーヌ川沿いに歩いてコンコルド広場通って向かおうか」
「天童さんは時間大丈夫ですか?」
「へーきへーき」

 夜の光に彩られたパリの街。隣を流れるセーヌ川では、クルーズの船が静かに川を泳いでいた。このまま真っすぐチェルイリー庭園を過ぎればコンコルド広場に着き、広場はシャンゼリゼ通り、そして凱旋門へ繋がる。左斜めにはライトアップされたエッフェル塔が小さく見える。観光名所があふれるパリだけど、意外と多くのものはコンパクトにまとまっていたりする。

「夜のパリって、たくさんキラキラ光ってるのに日本のそれとは全然違う感じがしますよね。京都のライトアップ見てる感覚に近いっていうか」
「あ〜トラディショナルな感じ?」
「そんな感じです」
「お。ちょーど今エッフェル塔シャンパンフラッシュしてんね」
「キラッキラしてますね」

 一時間に一度、黄金色に光るエッフェル塔がスパンコールをまぶした様にきらめく時間がある。ロマンティックな光はまるでパリの街を優しく包むよう。

「寒いの一気に吹き飛んじゃいました」
「うっそ寒い? タクシー乗る?」
「いえ。夜のパリ、もう少し堪能したいです!」

 平気なことを示すように笑ってみせる。日本にいるときはバレンタインの時に買える天童さんのショコラを大切に大切に食べていたけれど、パリに来てからこうして毎日天童さんと顔を合わせることが出来るなんて、それと同じくらい至高の時間だ。だからできるだけ長くこうしていたい。

「サロン・デュ・ショコラは前夜祭から参加するんだっけ?」
「はい。会社へ届いた分の招待状があるので。あとは2日目と4日目の入場予約とってます」
「気合入ってんね」
「仕事とプライベート兼ねてるので」

 前夜祭は明後日から。この日から商品を買うことも出来るし、ショコラティエから話を伺うことも出来る。たっぷり買ってしっかり堪能して、じっくり練った記事を読者に届けたい。ショコラの魅力を多くの人に発信したい。そう思うと気持ちも自然と引き締まる。

「名前ちゃんやる気に満ちた顔してる」
「はい。チョコレートの魅力を伝えるという使命を任されているのでやる気に満ちないわけありません」
「かっけ〜」

 天童さんと他愛もない会話を続けながらコンコルド広場の中心にあるオベリスクを通り過ぎ、ロワイヤル通りへと抜ける。マドレーヌ寺院前の三叉路で右に曲がり、まっすぐ進めばオペラ・ガルニエが見えてくる。あの有名なオペラ座の怪人の舞台だ。そのままオペラを横目に進み、地下鉄グラン・ブルヴァール駅のすぐ近くが私の滞在するホテル。

「あちゃー。これならルーブル通り通ったほうが早かったか」
「楽しかったのでむしろ遠回り出来て良かったです。サロン・デュ・ショコラ前で天童さんお忙しいのにここまでありがとうございました」
「いいのいいの」
「地下鉄で帰りますか?」
「ダネ」
「気をつけて帰ってくださいね」
「ありがと」

 次、天童さんに会えるのは多分、前夜祭。忙しくてもしかしたら会えない可能性だってある。別に私たちは何かが始まるような関係性ではないけれど、でもこの夜が、光を灯したパリの街が、このしばしの別れに名残惜しいと訴えてくる。

「そんな寂しそうな顔しないでよ。またサロン・デュ・ショコラで会えるんだから」
「……寂しそうな顔してました?」
「してたね〜」
「すみません、パリの街に酔ったということで……」
 
 顔に出したつもりはなかったんだけど。ショコラを口にしたらこんな気持ち忘れられるだろうか。ショコラと共に溶かすことが出来れば。
 そんな私の気持ちを知らず、天童さんは柔らかく微笑んだ。

「おやすみ、名前ちゃん」
「おやすみなさい、天童さん」

 優しい声色。私がホテルに入るのを見送って、天童さんも地下鉄に向かうようだった。
 部屋にたどり着いてベッドに身を投げる。天童さんは絵画から次のショコラのインスピレーションを得ようとしていたけれど、もし天童さんが絵画だったなら私はダークチョコレートを使ったプラリネにドライチェリーをまぶす。中はそうだな、ナッツを砕いたフィリングにしようかな。
 くすぶる思いを隠したまま、パリの夜はゆっくりと更けてゆく。

(21.11.30)