ゲットセット・テンパリング

 翌日はホテルに籠もってひたすら仕事をこなし、更にその翌日の夜、満を持してサロン・デュ・ショコラの前夜祭は始まった。2月のバレンタイン前に日本でも行われるそれよりもいち早く各ショコラティエの作品を頂戴することが出来るのだから、入場前から気合は十分すぎるほど入っていた。
 入場前の待機列はそれなりに長かったけれどルーブル美術館にも劣らないのでは、と思えるほど広い会場なので入場した後はゆっくり見て回ることが出来る。一年ぶりのパリでのサロン・デュ・ショコラに早くも浮足立つ。品評会にファッションショー、パフォーマンスやワークショップとまさに夢の空間が広がっているのだから。

「えっと、天童さんのいるところは……」

 だけど、私がまず向かうべきは天童さんのところだ。入口の近くにある会場マップで天童さんのブースを確認し、有名ショコラティエがいるブースを横目に真っ先に天童さんのところへ向かう。

「天童さん、お疲れ様です」
「名前ちゃん待ってたよ〜。どう? 楽しめてる」
「入場してすぐ天童さんのところへ来たのでこれから思う存分楽しみます!」
「イイネ。美味しいショコラ見つけたら教えてよ」
「任せてください」

 改めて会場を見渡す。パティスリーをメインにしているブースもあり、そこではマカロンやエクレアやアイスも買える。産地にこだわったタブレットを買えば食べ比べることも出来るし、何より会場内にあるチョコレートで出来た彫刻、そしてチョコレートのドレスがとっても可愛い。
 この夜が永遠に続けば良いのにと願わずにはいられない。

「名前ちゃん」
「はい」
「ようこそ、サロン・デュ・ショコラへ」

 そう、夢の夜は始まったばかりなのだ。



 天童さんの新作ボックスを購入し、次の目当てへと移る。去年購入して美味しかったショコラティエの新作はまた買いたいし、今年新たに参加したショコラティエやお隣の国ベルギーでショコラトリーを営んでいるショコラティエの新作も気になる。ファッションショーもみたいし、デモンストレーションにも興味がある。とにかく目移りするものが多すぎて自分があと5人いたら良いのにと何度思ったことか。
 全てを見て回るには時間が足りな過ぎたけれど、それでも夢の時間の終わりは必ずくる。背中を向けても、顔をそらしても時間は立ち止まることなく進んでいるのだ。
 私の両手がショコラで埋め尽くされる頃、前夜祭はゆっくりと今日の終わりへ向かおうとしていた。会場には漂う尾を引く熱気と、明日への期待が程よく入り混じる。徐々に数が減ってゆく来場者。私の足も出口へと向かう。
 写真を収めることも出来たし、絶対に買いたいショコラも買えた。明日はショコラを食べながら記事を書いて、今日ショコラティエから聞けた話もまとめなくちゃいけない。

「名前ちゃん、帰んの?」

 帰り際、天童さんのブースの前を通ると声をかけられる。先ほどCCC——クラブ・ド・クロクール・ドゥ・ショコラでアワードを受賞した天童さんは心なしか表情が輝いて見える。

「天童さん、アワード受賞おめでとうございます」
「まあ1位を決めるわけじゃないから最強とは言えないけどね〜」

 一般的なコンクールとは違いガイドブックを発行して評価を乗せるというものだけど、だからと言って全員が金をもらえるわけではない。

「でも天童さんのショコラを食べたら私は最強になれますよ。だから天童さんが金なの、私はすごく嬉しいです」

 見つめあって数秒。天童さんは珍しく言うべき言葉を飲み込んだように思えた。いつもの笑顔。だけど疚しさとは違う、もっと思慮深さが垣間見れるような空気がほんの少しだけ残る。

「次、来るのは2日目だっけ?」
「はい。明日は記事をまとめたり会社とリモートもあるので。それに今日は目当てのショコラも買えて、お話も伺えてもう大満足です。絶対良い夢みれます」
「明日からは一般入場もあるし、多分バタバタしちゃって満足に話せないかもしんないけど、声くらいはかけてよ」
「もちろんです。毎回真っ先に天童さんのところに向かいますよ」

 他意はなかったつもりだ。でも天童さんは言った。

「名前ちゃん、そんなに俺のこと好きなの?」

 その表情はどこか楽しそうだった。動揺してしまいそうになるのを堪え平然を保つ。試されてるいるのではない。これはからかわれているのだ。
 素直に好きですと言って築き上げたこの関係が消えるくらいなら、思いなんて伝えないままで良い。ずっとそう思って天童さんと交流を深めてきたのだから、それは今後も変わらない。

「……天童さんのことは尊敬してますし、天童さんのつくったショコラは、凄く好き、です」
「そっかそっか〜」

 天童さんはそれ以上追求することもなく、会場を後にする私を笑顔で見送ってくれた。外はすっかり暗くなっていて、ゆるく吹いた風が頬を撫でる。暗闇に覆われた空には月と星だけが優雅に浮かんでいて、夜がまた一段階深まろうとしていた。

(21.12.01)