ルビーカカオの溜息

 それから2日目、4日目と予定していた通りサロン・デュ・ショコラに参加し、今回の渡仏の目的を無事に果たすことが出来た。個人的に購入したかったものも会社から購入を指示されていたものも手に入れることができたし、悔いはない。合間合間に書き続けた記事も概ね形になった。日本に戻ったら皆でショコラの試食会をして、品評したものをまとめる。
 あとは帰国日を待つだけ。いつもよりも長く滞在したはずなのに、終わりが間近に迫っているのを理解するとやっぱり短い日程だったなと思う。

——名前ちゃん、明日の夜一緒に食事しない?

 天童さんからそんな誘いが来たのサロン・デュ・ショコラが終わった翌日のことだった。断る選択肢なんてどこにもない。すぐに返事をした。天童さんだって終わったばかりで忙しいはずなのにゆるく交わされた約束を果たそうとしてくれる。そのことに私の心はじんわりと温かくなる。
 そしてその度に私は天童さんのこと好きだなと思う。ショコラだけじゃなくて天童さん自身のことを素敵だなと思うのだ。想いが届く届かないじゃなくて、天童さんが心の底から楽しんでショコラを作り続けてくれればそれでいい。それを願い続けられる自分でいたいと。
 



 翌日、天童さんが案内してくれたのはセーヌ川沿いにあるフレンチのお店だった。フレンチと言っても日本で食べるような高級フレンチではなくて、もっと大衆的なビストロという感じだ。だけどさすがパリというべきか、赤に塗られた外壁や床のタイルはそれだけでおしゃれな空間を生み出している。

「ここね、すんごい美味しいから」
「天童さんがそこまで言うってことはとんでもなく美味しいんだろうなって思います」
「好きなの頼んでいーよ」

 私は英語のメニューをもらいどんな料理があるか確認する。代表的なフランス料理は一通りラインナップされていて、値段もそれほど高くない。ロケーションや時間帯を考えるとむしろ割安なほうだと思う。なのにチープな感じは微塵もなくて、どこか洗練された雰囲気さえある。

「えっと、私はニース風サラダとブイヤベースと鴨のコンフィが気になりました」
「お酒はヘーキ?」
「はい飲めます」
「んじゃ、ボトル頼むから一緒に飲も。あとデザートは?」
「んー……じゃあ、ミルフィーユで」

 頼むものが決まると天童さんはギャルソンを呼び注文してくれる。すぐにテーブルにはオリーブオイルとバゲットが置かれ、ボトルとワイングラスもやってきた。グラスに注がれるワインを見つめていると急にこの食事が大人びたものになった気がして緊張が走る。
 背筋がぐっと伸びたのは多分、私が一緒にいて天童さんの恥ずべき存在にならないようにするため。そんな私の思いを汲み取ったのか、天童さんは言う。

「楽にしてて良いヨ。高級フレンチでもないし」
「でも雰囲気はおしゃれです」
「あはは! ま、そーゆーお店選んだからね。肩の力抜いてみてよ。ほら深呼吸。そんでカンパーイ」

 グラスを掲げた天童さんに焦りながらも合わせる。甘口の白ワインを口に入れると、不思議と肩の力が抜けたような気がした。
 まず最初に運ばれてきたのは大きな白いお皿に乗ったニース風サラダ。ベビーリーフとサニーレタスの森にトマト、アンチョビ、ツナ、ゆで卵、オリーブが手を取り合うように混ざり合っている。小皿にとりわけ口に運ぶ。さっぱりと、だけど嫌味なく口の中に残るアンチョビとオリーブの塩気がアクセントとなってこれだけでお酒が進みそうだ。
 追ってやってきたブイヤベースも魚介の出汁がしっかり効いていて、味の整った香味野菜が火の通った魚介を優しく包み込んでいる。バゲットとの相性も最高で、つい手が伸びてしまう。

「おいしー? って聞こうと思ったけど名前ちゃんずっと幸せそーな顔してっから聞かなくてもわかった」
「日本にあったら週一で通います」

 しっかり下処理されて火の通った鴨のコンフィも、パイ生地とカスタードクリームが美しい層になったミルフィーユも、天童さんが「すんごい美味しい」というだけあって、完璧だった。普段ならもう食べるのやめておこうと思うお腹具合でも、ちょっとだけ無理して食べたくなる。それくらい舌に馴染む味付けで、とにかく美味しかった。

「想定していた100倍くらい美味しかったです。いつでも食べに来られる天童さんに嫉妬しちゃうくらい」
「名前ちゃんがパリにいるんならいつでも連れて行ってあげるんだけどね〜」
「住みたいくらいです、本当に」

 お店を後にして日の沈んだ空を見上げる。距離約1万キロ。時差8時間。近いとは言えない距離。だけど絶望するほど遠い場所でもない。高級ホテルに泊まることは夢のまた夢でも、パリで生活するのは意外と手の届く夢だったりするんだろうか。そんなことを考えてしまうのは、料理とワインがあまりにも美味しかったからなんだと思う。

(21.12.2)