魅惑のトリュフ
セーヌ川には月が落ちている。揺れる水面の上を漂うように映る月はクルーズ船によって二つに裂けられたかと思うと、またすぐにゆらゆらと優雅に泳ぎ始めた。「名前ちゃん、まだ時間大丈夫?」
「平気です」
「じゃあ凱旋門でも上ってみない? 上行ったことある?」
「凱旋門……上、ないです。エッフェル塔はあるんですけど、凱旋門は見るだけで満足しちゃってました」
すっかり暗くなったとはいえまだ人の多い時間帯。川沿いには手を繋いで歩く恋人たちもたくさんいる。そんな人々の中に紛れ込んで、恋人とは呼べない関係の私たちは凱旋門を目指した。この愛の溢れる雰囲気の中にいると、外側だけはそれらしい形を保っているような気になる。私の自己満足なのは十分に理解しているけれど。
程なくして凱旋門の地下にたどり着き、チケットを購入すると屋上へとつながる階段の前で私は覚悟を決めた。なぜなら屋上まで続く螺旋階段を約300段近く上り続けなければならないからだ。石造りの土台に金属のすべり止めがついているものの、どことなく心もとない。
「結構階段の幅狭いんですね」
「一方通行だから降りてくる人とすれ違うことはないよ」
「ちょっと安心です」
一歩、また一歩と上を目指す。変わらない景色の中で螺旋階段を上り続けると平衡感覚が狂ってくるのを感じる。ようやく途中の休憩スペースまでたどり着き、私は肩で息をしたけれど、平然とした様子の天童さんからは疲れなんか微塵も見受けられなかった。さすがというべきか、私の体力が無さすぎるのか。
それでも身体に鞭打ち、時間をかけて屋上までたどり着くと、凱旋門から見える絶景に私はすぐに見惚れた。綺麗にまっすぐ伸びるシャンゼリゼ通り。ライトアップされたエッフェル塔。まるで自分がパリの中心を司っているかのような錯覚さえおこる。
「すっごい運動量で自分の運動不足嘆いてたんですけど」
「うん」
「屋上まできてよかったって思いました。食後のいい運動にもなりましたし、今夜はぐっすり眠れそうです」
「名前ちゃんならしんどくても笑ってくれるんだろーなって思ったから一緒に上りたかったんだよね。ちょーど靴もスニーカーだったし」
じんわりと滲んだ汗が夜の寒さによって冷えてゆく。鼻先や耳たぶはもしかすると赤らんでいるかもしれない。それでも私はそんな風に言ってくれる天童さんをじっと見つめていた。
天童さんにとってなんてことない1日だったとしても、私には時々思い出して心がくすぐったくなる特別な日なのだ。だから出来るだけ鮮明に思い出せるようにと、強くこの光景を焼き付けたいと願う。
「名前ちゃん、寒そうだね」
「え」
そんな私の視線に気が付いた天童さんは自分の首に巻いていたストールを外し、私の首にそっと巻き付けた。ふわりと香る柔らかくも繊細な匂いが私を包み込む。胸の奥がきゅっと苦しくなったのは、隠そうと思った私の欲が顔を覗かせたからなんだろうか。
「……天童さんはこういうこと、慣れてるんですか?」
「こーゆーコト?」
「女性を喜ばせるようなことと言うか、エスコートが上手だなぁって前々から思ってて」
「ああ。そーゆーコトね。どっちだと思う?」
「えっ」
まさかそんな風に返されると思っていなくて、目を見開いたまま天童さんを見つめる。どことなく試すような、したり顔の天童さんは私の反応を楽しんでいるようだった。
「考えてみてよ」
私は眉を寄せる。その言葉を舌で転がしてみても意図はわからないままだ。
きっとこれも、天童さんのきまぐれ。
「エスコートしてもらえるの嬉しいですけど、その、個人的には、慣れてないほうがいいかな、なんて」
「ふうん。そっか。なるほどね」
「……あの、やっぱり今の忘れてくれると」
思い切って心のままに気持ちの内側を露呈してみたけれど、私達の間に漂う空気に耐え切れなくて、結果小さな声でそう懇願した。私の羞恥心を知ってか知らずか、天童さんは間髪いれず言う。
「えっヤダ」
「やだ!?」
「だって名前ちゃんって俺のこと好きだよね」
「……な……なんでわかったんですか? いや、というかずっとわかってたんですか!?」
慌てて問い詰める私と平然とした態度の天童さん。驚きと困惑で二の句が継げない私を天童さんはにんまりとみつめる。ああ、これは確実に天童さんの手の上で転がされている。反撃の一言くらい言ってのけたいのに、的確に図星を指されて心がただざわめく。
「明日の夕方に帰んだよね?」
「え? あ、はい。その予定、です……」
「仕事とかでエスコートする機会はあるけど、下心込みで優しくしてんのは名前ちゃんだからだよ。その意味、よーく考えてみてね。そんで明日、お店来て答え教えてよ」
見える景色も、夜の寒さも全て打ち消す言葉が降ってくる。
その言葉の意味を考えるには残りの滞在時間が少なすぎるし、天童さんの背後に浮かぶ月が美しすぎた。
(21.12.2)