ショコラの海で溺れたい

 凱旋門を下りてタクシーを捕まえる。後部座席のドアを開けてくれた天童さんは目線で「お先にどうぞ」と私へ合図を送った。隣り合って座る車内で私だけが困惑と動揺を抱えている。
 心を落ち着かせようと夜のパリの街を見つめても私の鼓膜に触れた天童さんの声が鮮明に蘇る。声は頭の中で反芻されて、どこまでも私を惑わせ、居座るみたいにそこに鎮座していた。
 下心。
 私だから。
 自分に都合良く考えるなら導かれる答えはひとつだけど、タクシーに揺られながらそれを口にする勇気はない。やけにうるさい心臓の音がエンジン音に隠れていますようにと願う。面映ゆさは膨らみ、私の中の感情をじわじわと育ててゆく。
 夜の街を置き去りにしてホテルの前で止まるタクシー。愛に溢れる国で、いざそれと直面すると人は案外すぐには染まれないらしい。

「じゃあまた明日ね、名前ちゃん」
「はい……また、明日。あの。今日はありがとうございました」
「いーえ。それじゃ、良い夢みてね〜」

 天童さんは私が明日お店を訪問しないと思わないのだろうか。思わないか。だって私は雨が降ろうと槍が降ろうと絶対にお店に行く。
 天童さんはそんな私の心を解っている。私の身体が、舌が、天童さんのショコラを求めていることを。




 翌日、私は天童さんのお店を目指した。空港に向かうバスに乗る1時間前。
 パリに着いたばかりの頃そうしたように、キャリーケースを持って石畳の道を強引に進む。どこからか聞こえてくるクラシック曲。お店の窓に張られた美術館のポスター。道の端にある石像。この角を曲がった先のお店で、天童さんはショコラと共に私を待ってくれている。

「天童さん」
「名前ちゃんいらっしゃい」

 出てくるお客さんとすれ違い中に入ると、出迎えてくれる柔らかい声。鼻腔に届く甘い香り。目を奪うのはショーケースに並ぶショコラ。そして、そんな私を見つめる天童さん。
 私はやっぱりこの場所が好きだと思う。それが悪魔の食べ物でも、神様の食べ物でも、この人の作るショコラに溺れ続けていたい。

「昨日、約束したので」
「うん」
「それで、その……」
「答え?」
「……です。はい」

 他にお客さんがいなくて良かった。誰かが入店する前に言わなくちゃいけないと思うのに言葉を上手に紡げない。深呼吸を繰り返して心を落ち着かせる。
 恋人になりたいとかずっと一緒にいたいとか、そういうのはまだうまく想像出来ないけれど、せめて育ったこの想いを、溶かすことのできないこの感情を、天童さんにちゃんと届けられたらいいなと思う。

「私、天童さんのこと好きです。天童さんのつくるショコラも大好きだけど、天童さん自身のことも、その……言われた通り、好きなんです。あっ天童さんとどうなりたいとかじゃなくて! ただ、でも、もし天童さんも同じ気持ちだったらそれはとても嬉しいなって思います。……天童さんも私と同じなのかなって答えを出したんですけど、不正解ならごめんなさい……」

 途中から天童さんの顔を見られなくて思わず顔を俯かせる。昨日の夜ちゃんと覚悟を決めたはずなのに、急にこんな不安になるなんておかしいな。

「コレあげる」
「え?」
「名前ちゃん限定の特別ショコラ詰め合わせボックス。もちろん世界に1つだけね」

 そう言ってカウンターの下から大きなボックスを取り出した天童さんは、恭しく私の前に差し出した。そのまま長方形の三段になった引き出しタイプの箱を順に開けていく。

「名前ちゃんのお気に入りとー、好きそうなやつとー、名前ちゃんっぽいやつとー、あと俺のお気に入りも」
「……たくさん、ありますね」
「だいたい90コくらいあるかな。今度俺が日本に向かうまでの日数分」
「日数分?」

 天童さんを見上げる。今度――つまり日本で開催されるサロン・デュ・ショコラのことだ。ここ数年はフランスにも負けないほど日本のサロン・デュ・ショコラも盛り上がっており、選ばれし百貨店に限定出店する天童さんも毎年この時期になると日本に帰国している。

「毎日一粒ずつ食べて、毎日俺のことを想っててよ」
「良いんですか?」
「エッだって俺も名前ちゃんのこと好きだし」

 こんな素敵なものをもらって良いんですかって意味だったんだけどな。
 でも、そっか。私はこれからも天童さんのことを想っていて良いんだ。天童さんが口にした好きという言葉に驚きよりも喜びが溢れる。想ってもらえるって、こんな優しい気持ちになれるのか。
 ショコラにも負けない甘い感情が身体いっぱいに広がった。

「あの、嬉しいです。とても。毎日大切に食べます。食べてショコラがなくなるのは悲しいけど、ショコラがなくなったら天童さんに会えると思うと嬉しいから、気持ちは複雑ですけど」

 天童さんはにやりと口角を上げた。

「そしたら今度は名前ちゃんがパリに来るまでの日数分のショコラをあげるよ」

 思わず笑いが溢れる。そうやって日々をちゃんと積み重ねて、いつかもっと近くに存在することが出来る日が来たらいいと思う。
 特別ボックスの入った紙袋は重い。多分そこにはショコラへの愛と天童さんの想いもずっしりと詰まっているからなんだろう。

「また日本で会えるの楽しみにしてます」
「またね、名前ちゃん」

 頭を下げる。天童さんと別れの挨拶を交わしてバスでシャルル・ド・ゴール空港に向かった。これから帰国するというのに目に入るパリの街は私の心を躍らせる。エッフェル塔。凱旋門。セーヌ川。シャンゼリゼ通り。ルーブル美術館。思い出の詰まった街がゆっくりと遠ざかってゆく。
 揺られるバスの中で膝の上には天童さんからもらったショコラ。きっとそう遠くはない未来、私はまたここに来るだろう。仕事でも、ショコラトリーを巡る旅行でもない。天童さんのそばで何気ない日常を生きるひとりの人間として。いつかここが私の居場所になる。
 そんな予感を抱きながら、パリの街に別れを告げた。

(21.12.05 / 完)