ゲイシャ




「んー、やっぱりこの時間はめちゃくちゃ冷え込みますね」

 居酒屋を後にして人の少ない道を並んで歩く。容赦のない冬の冷たい風が頬を擦るように吹きすさんで、いつかの夜から随分と時間が経ったなと思う。

「マフラー貸しますか?」
「昼神さんが寒くなっちゃうので大丈夫ですよ。もう無理ってなったらコートの帽子被ります」

 山頂部ではとっくに初雪を観測したけれど、街中に初雪が降り注ぐのはまだもう少し先だろう。その瞬間、昼神さんがそばにいたら「降りましたね」って笑いあえるのに。深まる夜にしんしんと降り注ぐ雪の結晶を想像しながらアスファルトを踏みしめた。
 真冬はもうすぐそこまで来ている。

「お互い明日も仕事ですね」
「ですね〜」
「昼神さんは命を預かってるからきっと毎日気を抜けないですよね。ミスなんて出来ないだろうし……私はミスしたらまあ、コーヒーの味が落ちるくらいかな? いや、それもそれでお店の命が危ないんですけど。でも、やっぱり凄いです、生き物の命を助けられるお仕事。スクラブも絶対に格好良いだろうしなぁ。だから風邪ひかないでくださいね」

 見上げて言うと昼神さんが声を出して笑った。一瞬だけ呆けたように私を見つめた瞳は、夜の隙間を埋めるように瞬きを繰り返す。
 堪えきれずという様子だったけれど、面白可笑しくという笑い方ではなくて、むしろどこか優しささえ秘めているような笑い声だ。

「え、ここ笑うところです?」
「いや、まさかそこから風邪の心配されるとは思ってなかったんで。だって、ほら、それは名字さんもって言うか。ひかないに越したことはないじゃないですか。てっきり仕事の話が続くんだろうと思ったんで」
「寒いし風邪とかインフルエンザ気を付けないとって思ったら口走ってました。……お仕事トークのほうが良かったです?」
「いえいえ、予想外のこと考えているのが名字さんの良いところなので」
「え〜それ褒めてます?」

 わざとらしく口を尖らせて言う。

「褒めてますよ」

 夜の寒さを忘れてしまいそうな昼神さんの温和な表情。笑った時に刻まれる目じりの小さな小さな皺を見つめると、柔らかい絹の布で包まれた時のような安心感がやってくる。
 見た目の善し悪しだけではなく、私は昼神さんの雰囲気がとても好きなんだと思う。

「名字さんは、最初のお客さんのこと覚えてますか?」

 昼神さんは前触れもなく、そんな質問をした。駅までゆっくり歩いてあと10分程。過去を思い出して話をするにはきっと丁度良い。

「確か、学生さんでした。年が明けて少し経ったくらいの時期で。あの時はええっと……これから受験があるって言ってたからコーヒーをサービスしたんですよ。マスクをしていたから顔ははっきり見てなくて。なのでその後も来てくれたのかはわかんないんですけど」

 オープンした日は緊張と不安が交互にやってきていたから全てのことを詳細に覚えているわけではないけれど、それでもやっぱり最初のお客さんのことはぼんやりと覚えている。

「それ、俺なんです」
「え?」
「1人目の客、俺です。獣医師の国家試験に向かう前。頑張ってくださいって言って名字さん、俺にコーヒーサービスしてくれましたよね。しかも特別に高い豆使ってくれたの俺ちゃんと覚えてますよ」
「ゲイシャ……!」
「うん。美味しかったし、嬉しかった」

 慈しみがこもったような瞳で昼神さんは私を見つめる。時が止まってしまいそうな瞳の色。私は驚きで言葉を失くす。
 
「研修医の時は場所も遠くて忙しかったし、今みたいに余裕が出来て通えるようになったのも今の病院に勤めてからだから気が付いてないだろうなとは思ってたんですけど、やっぱり気が付いてなかったか〜」

 必死に記憶の糸を手繰る。顔、全然思い出せない。でもちょっと話をして受験って聞いたから自分に対しても勢いをつけたくてゲイシャをサービスして。淹れている時に当たり障りのない会話をしたような気もするけど内容は全然覚えてない。
 そっか。そうだったのか。あの時のお客さんは昼神さんだったのか。無事に合格して、今でもこうして通ってくれている。それどころかこうして休みの日に出掛けるようになっている。

「……もっと早く言ってくれればいいのに」
「タイミングつかめなくて」

 昼神さんはそのまま続けて「ごめん」と謝ったけれど、声はどこかハツラツとしていた。

「でも、あの学生さんが昼神さんだったの、なんか嬉しいです」

 立ち止まったのは昼神さんが先だった。目先にある駅の改札。お別れの時間はすぐそこ。真冬がやってくるよりもずっとずっと先にこの時間はやってくる。

「俺もあの時名字さんのコーヒー飲めて良かったです。本当はもっと早く俺から声をかけられたら良かったんですけど、気持ち悪いと思われたら嫌だな〜と思ってなかなか声かけれなくて。いつも買うだけになってたから、あの食事の時に名字さんがいたこと驚いたけど、嬉しかった」
「そう、だったんですね」

 はじめから昼神さんが友好的なのはそれが理由だったのか。

「……あ、電車きますね。やっぱり寒いんでマフラー巻いてください」
「え、あ、でも」

 そう言って昼神さんはなかば強引に私の首に自分のマフラーを巻いた。チャコールグレーの質が良さそうなマフラーは頬に触れた感触が心地良くって、ほんのり香る昼神さんの匂いに私は眩暈さえ覚える。

「次30分後なんで、ほら。行ってください」

 昼神さんは促す。何か言いたいのに何も言葉が出てこなくて仕方なしに改札をくぐった。
 ICカードの音を聞いて、振り返る。何か、何か、何か。昼神さんに何か言いたいのに。こんな時にも、先に口を開くのは昼神さんだ。

「また明日」

 それはまるで魔法の言葉のようだと私は思った。

(21.07.26)

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