メルセデス




 そっか、昼神さんがあの時の学生さんだったのか。と、私は朝の支度中もずっとその事を考えていた。グッと冷え込んだ朝。こんな時は布団どころか家から出るのだって面倒だと思ってしまう。
 それでも大きなあくびをしてから家を出て、隙間なく巻きつけたマフラーに顔をうずめてお店を目指す。
 人通りの少ない商店街。歩きながら思い出すのは昨日の事。昼神さんと過ごした1日。切り取るように場面場面を思い返すと、心がふわりと浮いた気持ちになる。どうしようもなく面映いけれど、それは自分がただ浮かれているだけのような気もするし。
 紙袋に入れた昨日貸してもらったマフラーはこんなにも軽いのに、放つ存在感は強い。

(仕事に集中しないとな……)

 気持ちを切り替えるべくバッグからお店の鍵を取り出したそんな折、ふと聞こえるべきではない声がお店の横から聞こえてきた。小さなか細い声。聞き間違いとすら思ったそれは、確かに子猫のものだった。

「えっなんで!?」

 みかん箱ほどの大きさのダンボールにはひざ掛けに包まれた子猫が一匹。捨てられたと理解するのに時間はかからなかった。外気の冷たさを一瞬にして忘れる。
 周りを見渡してもこの箱以外には何もない。迷うよりも先に慌てて箱を持ち上げて、お店の中に連れていった。想像していたよりも軽い箱の重さ。ここに一匹の命が入っているなんてにわかに信じ難い気持ちになる。

 いつからだろう。体温そんなに低くなさそうだし今朝からかな。鳴いてるし多分、そんな衰弱しているわけじゃないと思うんだけど。

 こういう事が世の中のどこかではあることを理解していたけれど自分の身に起こったのは初めだった。自分の心臓が忙しなく動いていることに気づかず、私は箱の中の子猫を見つめる。
 こんな時でも箱の中にいる子猫は、自身の置かれた状況を理解することなく愛らしく鳴いていた。お前、本当にどこから来たの? と小さな小さな頭を優しく撫でれば、また「ニャア」と可愛い声がする。

 頭の中に浮かんだのは昼神さんの顔だった。
 マフラーを外すことも開店準備をすることもなく、私は迷わず昼神さんの連絡先をタップする。通勤時間帯だし、もしかしたら電話に出られないかもしれないという私の心配は杞憂に終わった。

『もしもし、名字さん?』
「あっ昼神さん。よかった出てくれて」
『何かありましたか?』
「実は、お店の前で子猫を拾ってしまいまして……」
『え?』
「あの。朝の忙しい時間帯にすみません」
『いえ、詳しく事情を聞いても良いですか?』

 昼神さんの驚いた声。ほとんど情報がない中で発見した時の状況を伝えれば、都度「うん」と優しく相槌を打ってくれる昼神さんの声色が私に安心をもたらした。

「……どうしたら良いのか、どうするべきかわかなくて、真っ先に思い浮かんだのが昼神さんだったんです」
『わかりました。子猫の状態も見たいので動物病院来られますか? 朝一の患者さんいないから俺が診られると思う』
「大丈夫です。今から行きますね」
『うん。あと、名字さん』

 凪ぐような穏やかな声で名前を呼ばれる。その声で私はようやく、自分がちゃんと呼吸をしていることを思い出せたような気がする。

『俺を思い出してくれてありがとう』

 なんで泣きたい気持ちになったのかはわからない。

「……いえ」

 身体の真ん中、奥深くから湧き上がってくる何かに蓋をして、私は声も出さず頷いた。その動作は昼神さんに伝わらないってわかっているのに。






 開店時間が遅くなる旨をお店の入り口に残して、昼神さんの勤める動物病院へ行く。
 私を直接出迎えてくれたのはスクラブ姿の昼神さんで、品の良さそうな受付のスタッフの方にお辞儀をするとそのまま中へ通してもらった。

「ちょうど今朝は患者さんの予約なかったんです」
「そうだったんですね」
「子猫、お預かりしますね」
「お願いします」

 拾った時のまま、私は段ボールを昼神さんに手渡した。慣れた手つきで優しく動物を扱う所作。ああ、これが昼神さんの生業なんだなとぼんやり思う。
 知っているつもりだったし、わかっているつもりだったけど実際自分の目で見るとこれが「獣医さん」なんだなぁと実感させられた。

「名字さん、お店大丈夫ですか?」
「え、あ、えっと、開店時間遅れますとはお知らせ残しておいたんですけど……」
「この子はこちらで責任もって預かるので、お店戻りますか?」

 一瞬、迷う。診察台の上で戯れるように昼神さんの手の中にいる子猫を見つめて、私は「そうします」と頷いた。ここにいて私に出来ることは何もない。

「あの、でもどうなるのか気になるので連絡もらっても良いですか?」
「ああ、うん。もちろんそのつもり。初見は大丈夫そうだし、多分名字さんがお店に着く少し前に置かれたんじゃないかな」
「そう、なんだ……」

 それが良かったのか悪かったのか私にはわからない。

「後で連絡します」

 穏やかな声。私はやっぱり少し泣きたくなって、誤魔化すように笑うだけだった。

(21.09.11)

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