シグリ




 昼神さんから子猫の連絡が来たのはちょうどお昼を食べている時だった。近くのパン屋さんで買ったクロワッサンサンドを食べながら、自分で淹れたジグリを飲んでいる時のこと。

『健康状態は良好でした。あとはいくつかの確認事項と検査が残っているので、それも問題なければ里親探しになります。俺も知り合いのNPO法人の方に連絡とってみます』

 クロワッサンの生地がはらりとテーブルに落ちたことにも気が付かず、その文章をまじまじと見つめる。お昼前にも自分で気がついたけれど、野良猫は拾って動物病院に連れて行けばそれで終わりじゃない。
 これからあの子猫が素敵な時間を過ごすためにも、お迎えしてくれる人が必要なのだ。

『良かったです! 私が発見して手を差し伸べたのでちゃんと最後まで責任持ちます。もしかしたら昼神さんに頼ることまだまだあるかもしれないんですけど、里親探し、しっかりやりますので!』

 とりあえず第一関門はクリアしたと思って大丈夫なのかなと息をこぼす。肩の荷が少し降りたようで気が楽になった。常連さんやお店に来てくれる方の中で子猫を迎えてくれる人がいると良いんだけど……と言ってもすぐに里親が見つかるわけもなく。

 無事に里親が決まるまで、ペット飼育可のマンションに住んでいる私が一旦その子の世話をすることになったのはその翌々日のことである。

『じゃあ今日仕事が終わったら子猫と一緒に名字さんの家行きますね』
『すみません、よろしくお願いします』

 セミナーがあるからと夕方でお店を締めた私は昼神さんの夜に会う約束を交わして在来線の電車に乗り込んだ。
 窓の外にはハラハラと落ちる小さく薄い雪が見える。窓に落ちては溶けを繰り返すそれは今年の初雪だ。初雪はもっとずっと先になると思っていたのに一昨日の冷え込みが続いた今日、とうとうその日はやってきた。朝からやむことなく降り続く雪は、道や壁や木や標識を白く染めては溶ける。思い出したのは、明日にはまた天気が回復するでしょうと言っていた今朝の天気予報。

(寄り道しないで帰って部屋の片づけもしないとな。あと、セミナーで学んだことまとめる資料も作って……)

 忙しくなる未来。満たされた生活。そんな中にも、こういったふとした瞬間の中にも、私の今の生活には昼神さんがいる。嫌じゃない。むしろ落ち着く。昼神さんのことを想うと心がはやると同じくらいに落ち着く。
 明日にはやんでしまうこの雪景色を、昼神さんと見られたら良いのにと私は密かに思った。






「遅くなってすみません」
「いえいえ、むしろ来てもらってありがとうございます」

 20時30分。ケージに入った子猫と共に昼神さんは部屋にやってきた。心に決めた通り、寄り道せず直帰した後、子猫のケージとサークルを置くスペースを確保するための掃除をしたおかげで部屋はばっちり綺麗だ。空いたスペースにケージを置いた昼神さんはそのまま床に座って、子猫を手の中に収める。

「じゃあ、お世話するにあたっての注意事項説明していい?」
「はい。お願いします」

 人としての責任感から、里親が決まるまで子猫と過ごすことを決めたけれど、いざこうして部屋にこんな可愛い子がいるとやっぱりテンションはあがってしまう。まさに喜びや楽しさが湧き上がってくる、わくわくといった表現が適していた。
 丁寧に説明してくれる昼神さんの言葉を一言も逃すまいと耳を傾けて、時には紙にペンを走らせて。小さい頃に小動物を飼っていた経験はあるけれど一人暮らしの部屋で飼うのは初めてだから緊張もする。
 昼神さんからのレクチャーが始まって約45分。私の腕の中に移動した子猫の頭を緩く撫でた昼神さんは下から覗き上げるように私に尋ねた。

「……これで説明は一通りしたけど、今の話の中で不明点とかありますか?」
「い、いえ! 昼神さんの説明、どうしてこれをしなくちゃいけないかってところまで教えてくれるのでとてもわかりやすかったです」

 普段とは違う距離感に、動揺を悟られないようにして答える。穏やかな表情の昼神さんがいつもよりも近い距離で私を見つめる。誤魔化すように、私は子猫の頭を撫でた。柔らかい毛並みと温かい体温が優しく私の肌をくすぐる。

「それならよかった。もし不安なこととかわからないこと出来たらいつでも連絡して」
「……良いんですか?」
「良いって?」
「なんか、ほら、役得みたい」
「役得」
「だって、こういうの獣医さんから部屋でしっかり直接指導してもらえることってないじゃないですか」

 私ばっかりこんなに与えられていいのかなと思いながら口を尖らせて言うと、昼神さんは笑った。

「それを言うなら俺だって役得ですよ」
「え?」
「言ったじゃないですか。俺を思い出してくれて嬉しかったって。それに毎日美味しいコーヒー淹れてもらってる。たまにサービスしてもらってる。ほら、こんなのってなかなかないじゃないですか」

 いたずらに笑う顔。私が答えるよりも先に子猫が鳴く。私の淹れたコーヒーがちゃんと昼神さんに幸せを届けていたのなら、これ以上のものはもうどこにもないような気がした。

(21.09.18)

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