ハイチ




 日々は急流のように過ぎ去り昼神さんが部屋にやってきた夜から2週間、子猫の里親は無事に決まった。毎週水曜日にお店へ来てくれるご夫婦が話を聞いて前向きに検討してくれた結果だった。

「そっか。じゃあ明日にはそのご夫婦のところへ行くんですね」
「はい。なので明日はちょっと早めにお店閉めることにしました」

 真昼の陽気な日差しが差して店内を照らす。今日も立ち込めるコーヒーの香り。動物病院が休みだという今日、珍しく店内を利用する旨を申し出た昼神さんは店内にある椅子に腰を下ろしていた。
 決して大きいとは言えないテーブルにノートパソコンと分厚い医療本を置いているから、これから資料をまとめるのかもしれない。邪魔にならないようにコーヒーを淹れながら私は昨日決まった里親の件を昼神さんに伝えた。

「無事に里親が決まって良かった」

 安堵した昼神さんの表情に私の気持ちもふっと柔らかくなる。いつもよりも一層丁寧にコーヒーカップに触れて、いつもよりもゆっくりとエスプレッソを注ぐ。エスプレッソの表面にはクレマが浮かんでいて、私はちょっと口角が上がった。

「この2週間、思っていたよりもあっという間の日々で実はちょっと寂しいなって思うところもあるんですけど、でも良い経験にもなったし勉強にもなったし、昼神さんにもたくさんお世話になったので本当にありがとうございます」
「お礼を言われるようなことじゃないですよ」
「たった2週間ですけど毎日一緒にいて仕事中も子猫のこと考えて、なんか意外な自分を発見できたような気もします」
「俺は名字さんはそういう人だと思ってましたよ」
「え?」
「責任感があるから、里親が決まるまではきっと子猫のことを大切に考えてくれるだろうなって」

 優しい眼差しに溶ける昼神さんの優しい言葉。ただ嬉しいだけじゃなくて、気恥ずかしさも感じるのはどうしてだろうか。気づかれないように深呼吸をしてスチームしたミルクに着色料を入れると、水玉模様のように落とされた3色がじわりと広がった。
 いつもとは異なる昼神さんの注文。先日行ったセミナーがラテアートのセミナーだったことを昼神さんに伝えたところ、興味を持った昼神さんが注文したのはカフェラテだった。ハートは一番簡単だけど変な意味に取られてしまったら申し訳ないなと、定番のリーフを描く。境目を朧にするように色が手を取り合い、コーヒーカップの中がキャンパスになる。

 完成されたこの瞬間も、好き。

 ふちいっぱいに注がれたコーヒーを丁寧に運び、邪魔にならないだろう場所にそっと置く。視線を向けた昼神さんから漏れる「へぇ」と、小さい感嘆の声。それがなんだか小さな子供みたいで私はちょっと誇らしげな気持ちになってしまった。

「ラテアートでカラフルなのって初めて見た」
「カラーラテのセミナーだったんです。前々から可愛いな、やってみたいなって思ってて。あ、着色料はちゃんと天然のもの使用していますので安心してください」
「飲むのが勿体無い気がしますね」
「気持ちわかります。でも、昼神さんが希望してくれたら何度でも作りますよ」

 少し間を置いて昼神さんはコーヒーカップを手に取った。それはゆっくりと優しく、もはや優雅とさえ言える所作。持ち上げたカップのふちに昼神さんの形の良い唇が触れると、リーフが歪んで、混ざり合うように色は回る。

「美味しい」
「良かった」

 安堵して私はそっと昼神さんから距離を取った。それでも広くはない店内では互いの存在をそれなりに感じる。
 度々テイクアウトを注文するお客さんがやって来たり、休憩を兼ねて店内を利用するお客さんが来たり、いつものように仕事をこなして「昼神さんがいる」という感覚がようやく少し薄れてきた頃、名前を呼ばれた。

「名字さん」

 先程までテーブルいっぱいに広げられていた資料が片付けられている。音を立てないように閉じられたノートパソコンはそのまま昼神さんの黒い鞄の中に消えていった。私はきちんと昼神さんのほうに体を向けて「はい」と短く返事をする。

「明日の夜、仕事そんなに遅くならないので、一緒に夜ご飯食べに行きませんか?」
「明日ですか?」
「子猫を引き渡した後、なにか美味しいものでも」

 瞬きを繰り返して昼神さんを見つめる。
 ああ、そっか。昼神さん私に気を使ってくれているんだ。2週間も子猫と一緒にいて、手渡した後はきっと寂しくなるだろうと想像を巡らせて、そして誘ってくれたんだ。私の知ってる昼神さんはそういう優しさを持っている人だ。

「はい、ぜひ」

 深く頷く。その優しさをただ丸ごと受け止めたいという思いで。

「じゃあ約束」
「うん、約束」

 小指を交えない約束を交わして昼神さんはお店を後にした。

(21.09.21)

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