マンデリン




「メリークリスマス、名字さん」

 澄んだ空気が満たす朝、おはようの言葉を飛び越えて昼神さんはそう言った。12月24日。世間は年末の雰囲気に飲み込まれ、まさに師走といった言葉が当てはまる今日、私はそれでも変わらずコーヒーの香りに包まれている。

「メリークリスマス、昼神さん」

 マンデリンの豆が入った容器を手に取って私も昼神さんの名前を呼び、同じ言葉をくり返す。
 どことなく満足そうに上がった昼神さんの口角。冷たい風にあてられた赤い鼻先。まるでトナカイみたいって言ったら昼神さんは笑うだろうか。可愛いと思ったのは失礼にあたるだろうか。

「まさか昼神さんからおはようよりも先にメリークリスマスって言われるとは思っていなかったです」
「名字さんの顔見たら言いたくなって」
「昼神さんって意外と茶目っ気ありますよね」
「意外ですか?」
「少なくとも数カ月前までは冗談とか言わない人かなぁって思ってました」

 朝起きてスマホの画面を見て、ああそういえば今日はクリスマスイブだってぼんやり思ったけれど、昼神さんの言葉で今日という日がグッと身近に迫った感じがした。隔てていた壁一枚が消えて「クリスマス」と呼ばれるキラキラしたものが目の前で光っているような。

「じゃあ名字さんの中で今の俺ってどんなイメージ?」
「そうだなぁ」

 問われて昼神さんの顔を正面から見つめる。
 柔らかそうな質感の髪の毛。高くまっすぐ伸びた鼻筋。笑った時に見える白い歯。きっと昔からモテていただろうからバレンタインにはたくさんチョコをもらってそうだし、その優しさは平凡な日々も特別な日も同じように大切にしてくれそう。たくさんの喜びを共有してくれるけど、案外サプライズされるのは慣れていないかもしれない。
 親しくなる前から思っていたこと、親しくなったからこそ思うようになったこと。短くも濃厚な日々の中で、気がつけばこんな風に多くのことを想像できる距離感まで近づいていた。思いついた全てを言うに足りなかったのは、時間なのか勇気なのか。

「なんとなく、ですけど……」

 いつもより少し熱めのコーヒーにスリーブを付ける。手渡すときに触れた指先はまだほんのりと冷たい。
 その微かな接触でさえ私の中の何かを揺らしながら、穏やかな雰囲気を醸し出して回答を待つ昼神さんを見つめ返す。その瞳の中に私が映り、思考は奪われる。間を開けず、何かの隙間を埋めるようにただ思いのまま口にするのが精一杯だった。

「意外とクリスマスの日にプロポーズとかしたり、可愛いクリスマスのお菓子とか渡してくれそう、です」

 瞬きを幾度か繰り返して昼神さんは笑う。赤かった鼻先はもうすっかり色が引いて、目じりに僅かばかり刻まれた皺が昼神さんの優しさを表しているような気がした。

「ははは。名字さんの中で俺はそういうイメージなんですね」
「わかんないですけど! そういう昼神さんを見てみたいっていうのもあるかもしれません。なんかほら、昼神さんがお菓子の入ったブーツ持ってたら可愛いなって」

 舞い踊りながら降る雪のように羞恥心が積もる。昼神さんが問うた意図とずれた回答をしてしまったことを理解した瞬間、同時に昼神さんの瞳に心が吸い込まれたことも理解した。
 それもこれも全部クリスマスのせいだと子供染みた言い訳を自分にするしかない。

「す、すみません。昼神さんが質問したかったのってこういうことじゃないですよね」
「いえ聞けて良かったです。クリスマスにプロポーズ、なるほどって思いました」
「いや、本当に私の願望というかイメージというかなんというか、勝手なあれなんで……」
「名字さん」

 昼神さんは一層丁寧に名前を呼ぶ。

「今日、夜は空いてますか?」
「え?」
「今はクリスマスの可愛いお菓子も持ち合わせてないんですけど、少なくとも俺は名字さんとクリスマスに過ごせたら良いなって思うような男です。そんな奴で嫌じゃなければ、今夜一緒に過ごしてくれませんか?」

 今度は私が瞬きを繰り返して、ただ昼神さんを見つめるだけだった。昼神さんとはいろんな時間を過ごしてきた。外出もしたし外食もしてきた。でもこんな日に誘うのは何か特別な意味合いがあったりするんだろうか。
 これまで一緒に重ねてきた時間を思い返せば思い返すほど、特別な意味があれば良いと望んでしまう。

「あ……えっと、その……」
「急にすみません。事前に予定確認すれば良かったですよね」

 私が困惑していると思ったのだろうか、昼神さんは申し訳なさそうに眉尻を下げた。私は慌てて言う。

「い、いえ! その、大丈夫です。夜、空いてるので、会えます」
「本当ですか?」

 パッと華やぐ顔つき。私はやっぱりこの人が好きなんだと思う。
 期待させるような言動をそのまま自分に都合良く解釈してしまうくらいには。






 お店を閉じて昼神さんとの待ち合わせ場所に向かう。約束していた時間まではあと1時間ほど余裕があって、私は駅までの道のりをゆっくりと歩いた。すっかり暗くなったこの時間、駅前を彩るイルミネーションは心を奪うほど美しい。

『誘ったのに待たせてしまってすみません。仕事終わったら俺もすぐに行きます』
『私のほうがお店終わるの早いので気にしないでください! 色々見て時間つぶすので昼神さんは私のこと気にしないでお仕事してくださいね』

 昼神さんからの連絡にそう言ったけれど、本当は早く会えればいいなと思っている。今朝会ったばかりなのにおかしいかな。おかしいよね。でもイルミネーションを見ていたら、商業施設の中にあったクリスマスツリーを見ていたら、同じ光景を昼神さんと見たくなってしまった。

(ああ、うん。そうだ、こういう感じ)

 可愛い冬服が並ぶのを見て、いつも通りの服装じゃなくてもう少し背伸びした服を着ることが出来たら良かったんだけどと思ってしまうことも。靴だけはお気に入りのものを履いていて良かったと思うことも。窓ガラスに映る自分を逐一確認しながらおかしなところがないかを探してしまうことも。
 結局は一つの感情に収まるのだ。
 名前の付いたこの感情はとても落ち着く。私も、昼神さんに会えるのが嬉しいと思ってる人間だってことちゃんと伝わっていると良いのに。

(21.09.27)

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