朝方の冴えた空気が街を起こす。
「おはようございます、名字さん」
と同時に、冬先の澄んだ寒さは優しく寄り添って、一日の始まりを強く示してくれる。
だけど、やってくる季節とは裏腹に、来店した昼神さんの声は春の訪れのように穏やかで温かかった。
「おはようございます、昼神さん」
昨日の夜、お互いにおやすみなさいと言って別れたばかりなのに、こんなにも真新しい気持ちになれるのはどうしてだろうか。
今までだってこうして顔を合わせてきたのに、名前を知った今、昨日よりも昔の気持ちがすでに遠い昔のことのように感じられるのが不思議だ。
「昨日はありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそありがとうございました。楽しかったです、駅までの道のり」
私と同じように昼神さんが微笑むことを私は単純に嬉しいと思う。
「ご注文は本日のコーヒーですか?」
「はい。本日のコーヒーを一つお願いします」
「淹れ方はどうしますか?」
「淹れ方、ペーパードリップ以外にもあるんですか?」
小首をかしげる様子がかわいらしい。店内にあるコーヒー器具を見渡しながら答える。
「ありますよ。サイフォン、フレンチプレス、ネルドリップ。夏は水出しも。時間がかかってしまうのもあるので、急いでいる方には既に挽いてある豆をペーパードリップで提供しています。昼神さんもだいたいそれが多いですよね。時間のある方は自動ミルではなくて手動のミルを使うこともあるんですけど」
「なるほど、たくさんあるんですね」
私の長い説明にも昼神さんは嫌な顔をすることもなく丁寧に相槌を打ってくれた。
昼神さんの持っている雰囲気のおかげなのだろうか。昨日もそうだったけれど、こうして話しているときに流れる時間はとても穏やかなもののような気がする。まるで、そう、コーヒーを淹れているときのような。
「でも昼神さん今日は勉強会ですもんね。忙しいと思いますし、いつも通りの淹れ方にしますか?」
「いえ」
昼神さんの瞳にはずっと私が映っている。今の私たちは店員とお客なのか、知り合い同士なのか。
「今日はちょっと早めに家を出たんです。名字さんと少し世間話でも出来たらいいなって思ったんで。なので、良ければ名字さんのおすすめの淹れ方で」
深い意味で受け取ってはいけない。その言葉に深い意味を見出してはいけない。言い聞かせて、私はどうにか口を開いた。
「……本日のコーヒーはコスタリカなのですが特徴としては豊かな酸味があります。あと苦味は控えめで、濃厚な甘味と深いコクを味わえて、バランスの取れたコーヒーになってます。炒り方がミディアムローストの豆なので、中挽きにしてフレンチプレスはどうでしょうか」
「ぜひそれで」
冬の寒ささえ忘れてしまうような……なんてことを一瞬考えて、コーヒーの抽出に着手する。
フレンチプレスが簡単な抽出方法でよかったと思ったのは初めてだ。昼神さんに手元を見られていると思うと余計な緊張をしてしまう。
一杯分の豆を自動ミルに入れて中挽きにする。
ガラスポットの中に粉を入れる。
適温に温めたお湯を注ぎコーヒー粉と馴染ませる。
ヘラを使い馴染んだ頃合い、蓋を被せる。
その一連の動作の最中、昼神さんは私に声をかけることはなかった。そしてあと4分ほど待てば完成、という段階で昼神さんは再び口を開く。
「良い香りですね」
朝の穏やかな時間。普段は通勤途中に寄ってくれるお客さんも、日曜日の今日は訪れることはない。そのことを私は今、喜ばしく感じている。
「でも小さい頃は、こんな苦い飲み物飲むなんて大人は変わってるなって思ってました」
「ああ、わかります。いつからそれを心地よく感じるようになったのかは自分でもわからないですけど」
「将来お店を開くよって小さい頃の自分に言ったらきっとびっくりするだろうなって思います。ケーキ屋さんでも花屋さんでもなくどうしてコーヒーなのって」
「あはは。それは俺もそうだと思います。子供の頃は獣医になるなんて思っていなかったし」
「そうなんですか?」
「はい。もっと全然違うものになるとばかり思ってました」
もっと全然違うものっていったい何だろう。こうして世間話をするようになっても、結局私は昼神さんのことを全然知らないのだ。
「名字さんはどうしてコーヒー店だったんですか?」
「そんな大層な理由じゃないんですけど、大学の時に友達とカフェ巡りすることにはまって。最初はラテアートに興味を持ったんですけど、カフェでバイトしたりセミナーに行ったりしていたらコーヒーそのものに興味が湧いて、結果このような形になりました」
「名字さんがコーヒーを好きなのが伝わるから、ここは心地良いんだと思う」
私達を包む香りに心を寄せる。緩く流れる時間が終わろうとしている今、4分が長いのか短いのか私にはわからなかった。でもとても温かい時間だと思う。
願わくは、昼神さんの1日が、このコーヒーを飲む時間が、そういう温かいものになりますように。
「そろそろ完成しますよ」
「あっという間ですね」
上がっているつまみを下し、金属フィルターで濾していく。遅くも早くもならないように下げていき、下までたどり着けば完成だ。いつものように紙カップに入れ、トラベラーズリッドとスリーブをつける。飲み口から中身がこぼれてしまわないように気を付けて昼神さんに差し出す。
「よかったです」
「え?」
「名字さんと色々お話が出来て。ありがとうございます。また、来ます」
うん。あっという間だった。
「……昼神さんのことも、私に教えてください」
緩く微笑んだ昼神さんは「はい」と短く答えて、背を向けた。
(21.07.15)